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アジア紀行~インドネシア・タナトラジャ~サバイバル家族旅行note⑧~

葬儀の山場を終えて

TOKARAU《トカラウ》での衝撃的な葬儀がほぼ終わったのは、ちょうど昼頃だった。十頭余りの水牛が次々に屠られた。

最後の牛が屠られたあと、100人近くいた外国人ツーリストは徐々に帰っていった。トラジャの村の人たち(GENTOグントは「ファミリー」と呼んでいた)は、まだ残っている。

GENTOグントと彼の友人のKIYUDINキユディンさんと私の3人は、竹製の椅子があるバルコニーに移動する。
子牛が2頭広場に引いて来られた。目の前で競りが始まる。あちこちから村人の声がかかる。2頭は Rp.50万と Rp.35万で競り落とされた。子牛だから安いということだ。立派な成牛だったら Rp.500万以上するらしい。おおざっぱに言って、50万円ということか。トラジャの人にとっては、とてつもない額だ。ちなみに、豚は1頭 Rp.25万ぐらいだそうだ。
いずれにしても、葬式をするには莫大なお金が必要だ。


昼ご飯

午後1時前、我々のところに食事が運ばれてきた。大きな椀にちょっとパサついた感じの赤飯が盛られている。皿には焼いた肉の大きなかたまりがのっている。もちろん先ほど犠牲になった水牛の肉だ。

小さな器に水が入っていて、これは飲み水ではなく指を洗うためのものだった。竹べらで肉を切って、自分の皿にとる。赤飯もしゃもじで自分の皿にとり分ける。箸はなく、右手の指ではさんで食べる。肉は味付けをしていないので、塩を振りかける。
目の前で凄惨な場面を見た後なので、食欲はまったくない。しかしお腹はすいている。少しずつ、全部食べる。

どこからか竹筒に入った酒が回ってきた。TUAKトゥアックという、椰子の樹液を発酵させてつくった酒のようだ。見よう見まねで飲んでみる。GENTOグントは「トラジャ・ウィスキーだ」と言う。味はまずまず、アルコール度はそれほど高くないようだが、よくわからない。

KIYUDINさん(左)とGENTO(右)

早くこの場を離れたいという気持ちがふくらんでいく。バルコニーの下では、皮を剥がされたままの牛がまだ横たわっている。解体された牛の肉は、集まった村人(ファミリー)たちに分け与えられる。肉のかたまりが、差し伸べられた手に渡される。
今夜はトラジャ・ダンスがあり、明日の朝まで続くそうだ。

やっと腰を上げて会場をあとにする。来たときに通ったぬかるみの道は少しましになっていた。車をとめた家でコーヒーを飲む。ここは、バルコニーで紹介してもらったエリーさんの家だった。

エリーさんと子供たち

そばにあったギターを手にとって、KIYUDINキユディンさんが歌い出す。とてもいい声をしている。ギターもうまい。コーヒーも美味しい。
「とてもおいしい」は、インドネシア語では「enak sekaliエナ スカリ」というが、トラジャ語では「マンミィ リィユ」というと教えてもらう。

午前中の葬儀は、別世界にいたような奇妙な体験だったが、再びあたたかな人間の世界に戻ってきたような気分だ。

たたきつけるような音がするので外を見ると、突然の激しい雨だった。しかし5分後には何もなかったように雨はやみ、再び青空が戻って来た。


午後の行程

午後といっても、もう2時になるが、これから夕方までこの付近の遺跡などを巡ることにする。

TOBARANAトバラナ

エリーさんの家を出た我々の車が向かったのは、TOKARAUトカラウから北へ20分ほどの|TOBARANA《トバラナ》というところだった。ここには伝統的なトンコナン・ハウスがあるという。大きな川沿いに、そのトンコナン・ハウスが建っていた。

ここではトラジャ独特の手織りの布を織って売っていた。アンティークのよい布は高価で手が出ない。バッファローやトラジャハウスの模様を織り込んだ布をRp.10,000で1枚買う。

PALAWAパラワ

TOBARANAトバラナの次に向かったのは|PALAWA《パラワ》という村だった。車はもと来た道を走る。途中、KIYUDINキユディンさんが仕事場に戻るというので、彼のオフィスに立ち寄る。写真を送る約束をして別れる。さっぱりした感じのよい人だった。
PALAWAパラワに到着したのは3時ごろだった。古いトンコナン・ハウスが二十ほどずらりと並んでいて壮観だ。

トンコナン(Tongkonan)というのは、舟形屋根をした高床式住居で、必ず北向きに建てられる。向かい合って南向きに建てられている建物はアラン(Alang)という米倉である。これらの建物は竹を主材料とし、釘を用いないで組み立てる。
この地方に住むトラジャ族の人たちは、現在の中国の南部辺りから船に乗ってやって来た人々の子孫と言われていて、これらの伝統家屋は、かつてトラジャの人々が海洋民族だったことの名残だと言われている。
土産物を売っているお婆さんがいたので、トラジャコーヒーを買った。お婆さんは髪が真っ白で、じっとしていて、トラジャの人形のようだった。

PANGLIパンリ

次に向かったのはという村だった。車は登り坂をくねくねと走る。一軒の小屋のそばに車をとめる。

人が住むには粗末すぎる気がする。家の前に置かれた椅子にだれか座っている。近づいて見ると、男性の石像だ。なんとここはお墓だそうだ。

ガイドのGENTOグントに尋ねると、これはPANGLIパンリの王様だという。そのときは信じていたが、実はオランダ軍と戦って投獄されていたパウルス・ポン・マッサンカという英雄であることが、あとでわかった。
GENTOグントはとても親切で、我々家族によくしてくれるが、時々「あれっ」と思うことがある。車に乗っていたとき、前方に高い山が見えたので名前を尋ねると、「あれは山だ」という答えが返ってきた。まあ、アバウトではあるが、信頼のおけるガイドであることに間違いない。

トラジャでは死者に似せた「タウタウ」という人形を墓に置く習慣があるが、目の前の石像もそれに似たものかもしれない。

BORIボリ

PANGLIパンリからさらに車は山道を進む。悪路が続きで体に力が入り、疲れる。運転するGENTOグントはもっと疲れているだろう。やがて|BORI《ボリ》という村に着いた。
村の広場にはたくさんの石柱が立っている。高いものは5mぐらいありそうだ。祭祀に使うのだろう。2人で記念写真を撮る。

石柱以外にも巨石がいくつかある。これも墓だそうだ。中央の四角く穿たれた穴に棺が入っているのだろうか。

タナトラジャの葬送儀礼に触れた一日だったが、自分の見たものは、そのほんの一部に過ぎないのだろう。
いつの間にか日が西の空に傾いている。まだまだ見残したものがあるが、RANTEPAOランテパオに戻ることにする。

RANTEPAOランテパオ

RANTEPAOランテパオに着いたのは午後5時だった。GENTOグントがお腹がすいたというので、2人で食堂に入りMie Kuahミークアを食べる。肉と野菜が入った汁麺だ。安心して食べられる。おいしい。

ホテルに戻ったのは6時を過ぎていた。長い一日だった。話したいことがいっぱいある。


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