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年下からこそ学ぼう


随分秋が深まり、樹木の色が本当に綺麗で散歩やドライブが最高な季節になってきた。
フランスの秋は日本と甲乙つけ難い美しさで、
本当に好きです。


こちらに来てそろそろ2年と半年。
住んでみて、フランスに対する印象で最も大きく変化したのは、
この国の魅力は田舎にこそあるということです。
フランスの地方は本当に豊かで穏やかで美しい。



私たち夫婦は都会よりも地方を好む嗜好が共通しており、この2年半でたくさんの田舎を訪れました。

フランスでは一部を除いて山がある景色が少ないのは以前書いた通り。

道中のドライブは、目の前一面がだだっ広い空とどこまでも続く広大な牧場や農場を突っ走る開放感に包まれ、
行き先では出来る限り、レストランよりも地元食材に囲まれた食卓に出会えるオーベルジュでご飯を食べ、泊まることで心の充足を選ぶようにしている。

こういった田舎のオーベルジュのオーナーやスタッフは、英語でのコミュニケーションは望めないものの、とにかく親切な人が多い。

とはいえ、普段の生活しかり、
言語そのものは本質的な問題になることは案外少ないように思う。
拙いフランス語で頑張る外国人の訪問にもあたたかく対応してくださる方ばかりで、嫌な思いをしたことはこれまで一度たりとも無い。



こういう方に出会えた時にいつも思うのは、
彼らは何故だかとても幸せなんだろうなという印象を受けること。

表情に嘘がなく、自分を偽らない。
全体の割合からすれば笑顔は多いのだが、
わざとらしい笑顔がない。

かといって、サービス業として相手に悪い印象を与えることはなく、いまこの瞬間に集中しているように感じさせる。
自分を過大にも過小にも見せず、ありのまま相手の前に立っていると思わせる。
こういう人の背伸びもへりくだりもない等身大の佇まいや振る舞いは、とても大きな魅力を放ってくる。



このへりくだりという対人スキルは、儒教文化が根強いアジア圏では、対人関係のいち手段として重要な役割を担っている。

古い時代には、疫病や災害、紛争の数々を生き延びた年長者が蓄えた知恵、知見、人生訓には、長生きするための紛れもない大きな価値があり、それらを若輩者に授けることは次の世代の育成と世の中の成熟にとって大きな意味があった。

そういった年長者は"目上"と位置付けられ、彼らを立てながらも若輩者がやりたいことを聞いてもらい、従ってもらう手段としてへりくだりが生まれたのだと想像する。


ただ私は、このへりくだりの文化は自分は早く脱出したいとずっと思っていた。
なんとなくずっと、ある種の居心地の悪さと不健全さを感じていた。



フランスとスペインに住み、
欧州の他の国々の方々とも仕事をする機会に恵まれてきた中で私が感じたところでは、欧州にもそういった感覚が全くないことはなく、アジアに比べれば随分希薄とはいえ、やはり存在する。
一方で、社会や社内での役職や、残してきた成果の偉大さがあってはじめて心からの敬意が生まれるという点は共通している。
要するに、『やっていること』や『やってきたこと』がすごいという非常に公平な基準で敬意を得ているように思う。



しかし、あえて違いを強調するのであれば、
『年齢による無条件での表敬』というものは存在しにくい。

それが間接的に現れる場面として、
人に対する言葉遣いがある。


日本語に丁寧語、謙譲語、尊敬語という非常に高度に発達した言語感覚があるように、フランス語をはじめとしたロマンス諸語にも尊敬表現が存在する。


例えば、英語では日本語で言うところの【君】も【あなた】もyouとなるが、
フランス語では【君】はtu、【あなた】はvousと単語が異なる。
(だからと言って、英語は敬語表現がない言語ということでは全くなく、英語には深淵で豊かな尊敬表現がたくさんあることをお忘れなきよう)


tuであればより親しく、vousであれば自分にとって相手はお客や上司、または初めて会う人など、人柄をよく知らないので適切な距離を保つ相手ということになる。
相手が自分に対して話しかけた時にどちらを使ったかで、相手が自分に対して取っている距離の長短を推し量ることが英語よりもより容易くなっている。

つまり、
tuを使うかvousを使うかは、
本質的には相手に対して敬意があるかどうかではなく、ましてや年齢でもない。
これは心理的な距離感を示すための道具に過ぎない。
(私は言語学や言語の歴史の専門家ではないので、あくまでいち言語ユーザーとして、この国で生活して人と接する中でそのように感じています)


こういうことを思い始めてから、
私の上司である社長に対してメールを出す時、『○○社長』と敬称をつけたメールを出すことにより間接的にへりくだった人間関係を構築しようとすることが異常にむず痒く、必要のないことだと感じるようになり、やめてしまった。
今では『○○さん』と送るようにしているし、社長の寛大さにも大いに救われ、特に問題もない。




そして、この複雑化した現代社会では、
『年齢による無条件での敬意』という部分のみにおいては、早めにそこから抜け出さないといけないと感じる。

何故なら、現代では年上から学ぶのと同じ、いやもしかしたらそれ以上に、
年下から学ぶことに適応できた方が人生が豊かになると思うからです。



私は、成果が出ているか否かに限らず、
自分が世の中に貢献する形はこれなんだと信念を持っていたり、
これまで築き上げたものを躊躇なく捨ててまた新しく何かを始めたり、
私の人生には幸いにも訪れなかった大きな不幸や挫折を乗り越えてもなお力強く生きているような人がかっこいいと感じます。
こういうタイプの方々は決まってポジティブシンキングで、トライandエラーで物事を前に進める力がものすごく強く、とても勇気を与えてくれます。


この生き方そのものには年上も年下もないのですが、やはり年下がそれを実践している姿を見せてくれると『おっさん、あんただってやってみなよ!』と背中を押してもらった気分になる。


例えばキックボクシングの那須川天心選手(いまはボクシングだけれども)や武尊選手は、去年の世紀の一戦以来、2人の人間性と勇気、一途さの虜になってしまった。
2人の性格は全く違うのだけれど、仕事に打ち込む姿勢やビジョンに対して本当に敬意が生まれたし、これからも応援したいと思った。
なので、去年の試合で2人が闘い、どちらが勝ったのか負けたのかというのは私にとってはただの情報消費でしかなく、本質ではないと思っている。


ゆりやんレトリィバァさんも最高に好きな芸人さん。
とにかく前に出るガッツが凄く、周りに見せていない圧倒的な努力を感じる。
すべるすべらないというのは彼女の仕事にとって大事な評価軸だと思うのだけれど、どっちに転ぶかではなく勝負に出ることを大事にしている(と私は感じる)彼女がすごく好きです。

そんな彼女の仕事を自分の仕事と置き換えて考えることもある。
大きな番組の雛壇に出演し、司会は大物芸人さん、周りは先輩だらけという環境でも前に出て笑いをとりに行く彼女の在り方を私の仕事にあえて置き換えるならば、
経営会議で幹部を前に自分の意見を忌憚も忖度もなく堂々と話す、というようなところでしょう。
これは実力だけでなく、勇気と自信という心理的な強さが求められる行為で、心も技術も中途半端ではダメ。だからこそすごいと思うんです。

また、彼女は賞レースでの優勝や海外番組での実績など、自分の実力と可能性を高めるチャンスを自ら掴みに行く努力をしており、新しい何かに挑戦する力強さにも本当に励まされる。



『年齢なんてただの数字』とはよく言ったもので、
人と人の信頼関係の本質は国境にも、ましてや年齢にも左右されない。

ネット時代の特徴は知識の民主化であり、『知っている』だけのことの価値は相対的に低くなり、それを『やっている(実践している)』ことの価値が高くなった。
だからこそ、あくまで一般的にではあるけれども、とにかく行動力がある人の方が価値があることを実践できるのではと思う。


そうすると、若いから行動力がある、というのは実は正しい因果関係ではなく、年齢が若い人が行動しているところを見て、彼らより年上の自分が刺激を受けている、というのが実態なのだと気づく。
それはつまり、よく言われるように、『若い』は年齢のことではなく気持ちのことだということだと思う。


行動しないで訓垂れているような人間になりたいだろうか。
失敗する勇気と、そこから立ち上がる気持ちの強さを持った人でありたい。
まだまだ人口ピラミッドの全体からすれば若い方なのだけれども、少しずつ後輩もでき始めた自分への戒めの意味も込めて。







今日、フランスは第一次世界大戦の終戦記念日。

私たち日本人にとっては戦争と言えば第二次世界大戦ですが、
欧州にとっては第一次世界大戦こそ悲惨な戦争の象徴。


フランスではどんな小さな村にも、第一次世界大戦にその村から出兵し、国のために命を捧げて亡くなられた兵士の名前が刻まれたモニュメントが必ずあります。
近代以降にペストを乗り越えるために建てられた記念柱もよく見かけますが、
兵士のモニュメントがない村は見たことがありません。
傷の大きさを感じます。





そんな日に妻と街に繰り出し、
妻の誕生日プレゼントをのんびり見て回れた今日を幸せと噛み締めたいと思います。
(写真は買い物中の街中)

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