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北斗に生きる。-第4話-

大泊港に一緒に入隊する若者が十人ほど集合した。稚内に上がってからだんだん仲間がふえ、青函連絡船では四十人くらいになった。
日本全国から三重空の津に集合した時は、四百人近くになった。列をつくり隊内に入る。分隊も班も決まるが、班長はまだ決まっていない。

二日目の夕刻すごい腹痛で動くことも出来ない。夕食どころではない。樺太からきた東海林という兵もころげまわっていた。二人一緒に医務室行きである。翌朝、どこも痛みがないので帰ろうとすると、昨日から絶食しているので、二人一緒に盲腸をとるといわれる。手術をされ、同室に入れられる。暑さで夜も寝ることができない。

五日目で退院、班に帰ることが出来た。
過激な運動は出来ないので訓練に出ることはできなかった。隊に帰って四日目、伊勢神宮参拝の行軍が予定されていた。ぜひ見ておきたいと軍医殿に全治の許可をもらい参加した。道中は大変であったが五十鈴川の水に手を入れほっとした。二見ヶ浦の岩も見ることが出来満足した。

九月、三重空も兵が多くなり、オレ達は和歌山県高野山の分遣隊に移ることになる。ケーブルで登る。入口の門に「女人禁制」の大きな看板が下がっている。何百年もの間、風雨にたたかれ字が六ミリぐらい高くうき出ている。
寺街に入ると大きなお寺が八十軒ほど、民家らしい家は表街にはない。あるといえば、小さなお土産屋かトウガラシぐらいである。

標高三千尺の山の上の盆地である。兵舎とは名ばかりすべて寺の中の生活である。百八十人の兵が大広間の木の長テーブルに四人ずつ正座をしての授業である。先生の他に見張りの班長が後ろに精神棒を持って立っている。うとうとと下を見るといきなりバシッと肩をたたかれる。頭の中は真っ白になり何もわからない。暦には曜日はあるが日曜は二週毎である。

作業は八キロぐらいの山奥に木炭を運ぶ作業もあった。親指くらいの太さのキンキンと音がする良質な木炭を兵舎まで運ぶ。二週間毎に、日曜の外出があったが、毎日講堂の移り替りに走っている街である。でも何となく自由になったような気分でぶらぶらした。

大阪から来ていた友が檜の大木の幹に「○○子おれの命」とナイフで刻み込んだ。オレには何の意味か何を訴えているのかわからない。二ヶ月ほどして行ってみたら樹液が出てはっきり字になっていた。あれから五十五年、もう見ることは出来ないだろう。

講堂替えの兵隊が二列になり、駈足で走ってくる。まるっきり坊さんの寺街ではなく、兵隊の街である。その中をの杖、緋のはきもの、緋の衣を着た八十歳くらいのお坊さんが、静かに歩いてくる。後ろには一休さんのようなつるつる頭をした小坊主が二人、書物が入っている紫の包みを持ち、一メートルくらいはなれてついてくる。三尺さがって師の影を踏まずとはこのことをいっているようだ。あの時の小坊主さんも六十四、五歳、緋の衣を着てお経をあげているだろう。

十月中頃、大きなお堂で慰霊祭があった。
全員で参拝する。百坪以上もある。広い仏間に柱が五、六本しかない。広間は電灯もなく太いローソクの光に照らされていて、テカテカしているのは、百人ちかい坊さんの頭である。低音でゴワン、ゴワンとひびく不思議な気分である。

十代の若者の心意気は死はすべてであると感じていた。
一週間毎には大和尚のお話があった。今でいうお説教である。現在の仏事の和尚の話とは違い、人間は生に発し、死に従い一命を賭するが真実、おのれの幸なりである。二時ほど正座して聴くのが度々であった。精神棒をもった下士官が三人もいる。こっくりとなったらバシッとくる。和尚も軍の命令で国のため未練なく死を決せよ。汝の死は国のためと、軍事説教の勉強をしたのだと思う。

(つづく)

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読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑