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Nサロン未来会議に出席して


本題の前に


あいも変わらず遅刻、仕事で仕方ないんだけど。
毎度のことなのだが、その毎度でとても暖かく迎えてもらえることで本当に参加しやすい。
こういうコンテンツ以外のところの機微な部分がモチベーションや参加率に大きな影響があると思うのです。
ありがたや。

目線をズラす

「いやぁホント、ありがたや。いやいや」
とおよそ授業の内容や遅刻したことの申し訳なさとはかけ離れたところに意識が持っていかれたまま着席。

するなり、場は講義からディスカッションへ。

事件のダイイングメッセージの様に自分に残された手がかりは、
「非公式コミュニティに学びが隠されている。」
「作られたコミュニティにあるコンフォートゾーンからは学びが少ない。」

これを最大限に活かすしかない!!
そして何かを書かなくては。大きくは外していない何かを!

・・・・・・・。

、、、「目線をズラす」、、、、、、。

今の状況がうしろめたくて逃げたいからやった行動ではなく(してないと思う)
本当に何とか白地に書いたワンフレーズである。
ダイイングメッセージから推測し、自分を深く掘り下げ、そして凝縮して出した一言。3分で。

でも言い訳や固執でなく、これは自分にはとても大事なスタンスだと思います。
3分で呼び出した割には。

Nサロンは参加者のみなさんが豊かですし、授業は質が高いし、場所など空間も素敵。
とても作りこまれていて「心地いい」んです。
もちろんそこに甘えることで、Nサロンとしての良さを最大限享受できるんだと思う。

でも最大限の先、そこにある環境をさらに超えて、
極論で言えば、作り込めていない部分からも何かを吸収しようとするならば
どんなことをすればよいのか。

それは「公式」や「コンフォートゾーン」から少しでもいいので「目線をズラす」こと。

思い返すと、自分には一つすでに気付きがあります。
それは、「学ぶ」ことに対しては「インプット至上主義」だった自分が、課題という「アウトプット」に取り組む事からでしか学べないモノもあるのだということ。
課題という重いパンチで顔の向きが変わり無理やり目線がズレたところもありますが、それは確かな発見でした。

今度は自分から目線をいろいろ動かしてみる。
そうやって本来のカリキュラム以外のボーナス的学びを頂戴してニヤニヤしたい。なんてことを漠然と考えながら、講義は次の流れへ。

「知らない」を「知っている」


今度は「コンフォートゾーンから出るために」というお題で話し合いをしました。
みなさん意見がいろいろあって、参考になるし面白かった。

特に自分が刺さったのは「知っている」と「知らない」という区分
これがコンフォートに多分に影響しているということ。
「知っている」ことに対しては安心感がある。だから、一つの捉え方として「コンフォート」とは知っている状態。

パッと思いついた、非常に強引な例えとすると、
罠が仕掛けられているだだっ広い部屋にコンフォートなんて微塵もありはしないが、罠があるポイントに印があって柵まで施されていて、ありがたいことに出口までの動線が引かれていたらある程度コンフォートかも。罠の有無ではない。その存在の情報の有無。

学ぶや成長するとはそうやって「知らない」ものを「知っている」状態に増やしていく事。

もともと何となく成長ってこんな感じという自分なりのイメージがあって
自分を中心とした円が広がっていく。そして円周の一点からまたそこを中心とした円が広がっていく。
円には材質があって、ゴムやバネみたいなもの。内側から押し広げようとしても強い力で反発が働く。
要は成長ってそんなカンタンではないですよ。ってことです。
でもそこを押し続けると、いずれそれらは伸びきってしまい戻ってこなくなる。
戻ってこないという状態は、自分の地肉となり自分自身のものになっといること。いわゆる成長です。

よって、Nサロンをふんだんに利用して「知る」という円の拡大を図っていく!
やるぞ!!

「知らない」と「知っている」

でも自分がここで書き残したい事はもうちょっとあります。

そういえば。
せっかくの黒田さんの貴重な話を聞けてない。
と皆さんの姿が見えなくなった頃に5分だけ対話の時間をいただきました。

まずは、「どうして議論メシを始めようと思ったのか」なんてもう散々答えてきたであろう質問から入りました。
その愚問に真摯で丁寧な返答を頂き、逆に「ああダメダメ、違う違う。なんかもっとあるだろう」と。

そこでふと思ったのが、「議論で相手に思考を回してもらう」というプロセス。
以前、水野さんが「編集者は作家の壁打ち相手」と表現されたことにピッと紐付いて、
「編集者に似ていますね」と述べました。それに対する黒田さんの良さげな反応にホッとする。

でも同時に思った事は、「議論の相手の方が編集の相手より相当多様なのでは!?」ということです。
(水野さん本当に本当にすみません。今後も優しくコンサルして欲しいです。お願いします。)
で、「相手の話の内容が度量を超えていたらどうするんですか?議論にならないような。」「多様な相手と相対できるように自分を広げているのか、もしくは、議論の本質はどんな相手でも同じで何かそういうやり方みたいなのがあるんですか?」的なことを質問しました。

なるほどと熟考したのちに、
「それに対しては素直に聞いて教えてもらいます。が、それこそが活きてくるんです。相手は普段、そんな次元で話をすることがないので。そこで気付くことが多いにあるんです。例えば顧客満足、顧客満足っておっしゃいますが、顧客ってどんな方々ですか?なんてね。」

確かに普段の自分を考えても、共通言語や共通の価値観に委ねてしまって視界の外に追いやっている物事は多い。議論に乗らないのはその価値がないからではなく、その意識がないからできないだけ。それを土俵に戻すという役割が果たせるということか。

そして一言。「無知の知ですね。」

この言葉が響きました。単語としては知っていたものの、これまではあまりピンとくるフレーズではなかったのです。
「知らない」ことで「知って貰える」
「知らない」ことが有利に働く。

また目線がズラされました。

「なるほどなるほど」と帰り道に自分の中で整理したこと。

コンフォート:知ることが安心につながる
無知の知:知らないことで活きることがある
という両側面がある以上、なんでもかんでも「知る」という一方通行だけではなく、「知る」「知らない(分からないや出来ないも含めて)」の区分自体を「知る」ことも大事なのではということ。サロンをその区分の機会として捉えるということ。
講義を受け、課題に取り組み、多様な人と会話する。そういった潤沢なフィルターを通して「知らないことを知っていく」と共に「知らないということ自体を知る(意識する、受け入れる)」
(「積読」というのがあるが、本としての仕事は何一つ全うしていないのに、あの状態に肯定的な意見も多く伺える。それって、「読めていない」状態の本があることを「知っている」ことに意義があるとするからだと思うのです。)

ネガティブな面も含めた己を知るってことになるのだろうか。
それが結果としてポジティブに働くということなのだろうか。

書き終わって、「なんかよく分かんないな・・」という状況ですが、
素直に言語化するとこんなところでした。
今後もしっかり学んでいこう。

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