生活を犠牲にしない写真との向き合い方

noteご覧くださって有難うございます。

最近、気持ちのバランスのとり方というか、どの姿勢に「本当の自分」を置くか、生活をどう妥協するか、楽にするか、ストレスを減らして写真に没頭するか…そんなことを、悶々と考えています。そんな中書いてまとめようと思ったことがあるので、記します。長くなるので、一息ついてからどうぞ。

勘違いの努力

先程、ふと思ったのです。「写真を続けるのに、本当に犠牲はつきものなのか?」なんて。そう、私は何か打ち込むためには生活や自分の気持ちを捨てないとならないと思い込んでいるのです。

例えば昼。昼休憩にはカメラをもって吉祥寺をsnapします。やりたくてやっているのは確かなのですが、なんとなく「昼休憩、ランチを犠牲にしてでも写真を撮るんだ」という首を絞めるような認識の仕方なんですよね。

それから睡眠。これは社会福祉士として現場の援助に入っていたときこそ甚だしかったのですが…「寝る暇があるのなら仕事(写真)をやれ」という謎の呪縛がまとわりついてくるのです。

でも、そこに「効率」というものが欠けているのも事実です。

時間をかければ、努力している、結果が出せると思っている…典型的な「勘違い努力家」なのです。

いまだ脳内に響く先生の声

小学校6生のときの担任教師が、ある日宿題の提出率が悪い事について授業をやらずに説教をしたことがありました。全員が黙って着席する教室の空気は、本当に嫌なものでした…先生はそこで、宿題を提出できなかった生徒に対して順に「なぜ宿題を出さないんだ?」と問いていきます。理由はまるで情けないものでした。

「遊びたかったから」

「忘れていました」

「やろうと思ったんだけれど、うっかりしてしまいました」

「やらなくてもいいかなっておもいました」

「面倒だと思ったからです」

学校という閉鎖的な中で、宿題を強要されるシステム自体が嫌いな生徒も、いたのかもしれません。ただ、このときの私は非常にまじめで「宿題はやらなければいけないもの」であると信じておりましたし、やらないということは「ルール、約束を破ったこと」だと認識していました。かくいう自分も怠惰で提出を忘れていましたが。

当然、聞いてすぐわかる「怠慢」について先生はあきれ顔。そんな中、一人の女子生徒がある言い訳をしました。

「私は家がラーメン屋さんです。お店が大変で、私はいつも家に帰ったらお店を手伝います。ずっと手伝っていて、宿題をやる時間がありませんでした。」

教室の空気が一瞬動いた気がしました。ああ、この子は頑張っているんだね、私たちと違って、家で働いて、きっと疲れてるにちがいない、それでも毎日頑張ってるんだろうなあなんて私も考えましたし、周囲にいる生徒たちも同様にそう心の中で思っていたでしょう。

そこで、さっきまであきれ顔しかしていなかった先生が、口を開きました。

「‟時間がなかった”…?飯は食べたのか?便所に入ったのか?夜はどうした、寝たか?」

女子生徒はそれぞれの問いに小さな声で「はい」と。すると先生は拍車をかけて言うのです。

「飯食べてトイレ行って寝る時間はあるのに宿題をやる時間がないだと?甘えるんじゃない。」

…それ以降、自分のなかで、努力するということは時間を削る事、ほかの動作を犠牲にすることだと、インプットしました。おそらく、というか確実に、それが認知の歪みを起こしているのでしょう。

充足感を得るとき

そういった歪みのせいで、私にとっての成功体験はなんともストイック(不健康)なものばかり。

「2日徹夜してがんばった」

「ご飯を食べる時間も取らずに頑張り続けた」

「人とかかわるのをやめて一人でやった」

頑張ったぞー!と一人で盛り上がる自分…さて、そこでやり切った気持ちがあったとして、結果は?

そうです、「結果よりプロセス」の神話の信者にもなってしまい、結果の評価も薄くなってしまうのです。これまたいわば典型的な、「成功できない人間がやりがちなこと」です。

0か10か

さらにいえば、上手く息抜きができない私は、やろうと思ったら他の一切をシャットダウンしたい気持ちでのめり込んでしまう。もしくは、やらないならば一切投げ捨ててしまう。そんな感じです。これについては共感する方も多いような気がします…。

そもそも、10なんて無理なんですよね。10やろうとしたら、絶対的に身体を壊しますし、精神だっていのちだって、うまくいかないんです。

誰よりも自分ではわかっている

自分の一番の理解者は自分です。他人に言われなくても、分かってはおります。ゆえ、苦戦するのです。

ただ、最近身体でもって、もっと脱力したら?と気づき始めています。

向き合うことに変わりはない

さて話は冒頭に戻りますが。

生活を犠牲にしない、といいますか。自分の置かれた環境、生きる上での全てをデザインしながら、その一部である写真での活動をもデザインするという意識が非常に大切ではないかと思うのです。天才じゃないんだから。

私なりの生き方があって、物事の愉しみ方もある。やらねばならない、“努力”しなければならない、そんな無意識の邪魔者は放っておいて、いい加減生きたいように生きたらいいじゃないか。

…世の中のルールがなんだ、社会的なマジョリティの価値観がなんだ。

「写真は趣味です」なんていって気持ちを程々にするのではないのです。そこには変わらぬ熱量を保ち、大事に大事にしながら生活と折り合いをつけていく、ということです。向き合うことにに変わりはないのです。寧ろ…やみくもに、我武者羅にただ撮るよりもずっと、深く、丁寧なことかと思います。

----------------


長くなりました。

最近は、自分自身の欲に、感情に正直になりました。会いたい人には会う。好きな人には好きと伝える。やりたいことはやるし、やりたくない時には無理はしない。反対に、義務感からくる行動力は抑える。そんな感じです。

感情に正直すぎて、プライベートではちょっと困ることもあります。でもそんな今が、今までで一番私らしい気もします。

あとは、人に感謝できるようになれば◎ですね。基本無責任で薄情な私ですが、人に感謝を伝えることは、素直にできるようになりたいです。

…あれ、ちょっと綺麗にまとめすぎましたかね(笑)

明日からは2月です。皆さんにとってはどんな2月になるのでしょう。寒さもとことん大詰めですが、どうか身体をご自愛ください。私も、大事にします。



小宮


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

2

KOMIYA MIYAKO

コミヤミヤコです.写真作家になりたい社会福祉士です.
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。