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古文書を学んで、美しい日本語とは何かを考えるようになった

サブスクという言葉の意味をなかなか覚えられません。

通っている治療院のメニューにも、「サブスク」という言葉が並んでいました。

なぜ月額費用とか月額料と言わないのでしょうか。

IT用語がそのまま多方面にも使われるようになって、ひょっとしたら、習い事などもサブスク1万円みたいに使われているのでしょうか。

ちょっと、いや、かなり拒否反応があります。

思えば、「エビデンス」という言葉が異常に流行り出した頃にも、同じような強烈拒否反応がありました。

「なんだよそれ・・・証拠資料と言え!!」

心の中で毎度叫びながら「自分は絶対に言うまい使うまい」と決心して以降、今に至るまでそれを頑なに守っています。

むやみやたらに、いきなりやってきた新しい英語を、あたかも日本語のように使う。

ヘンだよ、それ。

そういったことにすっと馴染んでしまうのも、また日本人の特徴なのかもしれませんが、なにか自分の中では絶対NGの領域に入っています。

少し前に人と日本語について話しているとき、猫も杓子も「めっちゃ」という言葉が今一番使われているという話題になり、なんかそれバカっぽいねということで盛り上がりました。

以前、ヨガの先生がレッスン中に、勢い余って「めっちゃ」と口にしてしまい、少し恥ずかしそうにしていたことからも、きっとそう思っている人はたくさんいるのかもしれません。

古文書の中でも人々の会話やセリフには、その当時の言葉そのものが出てきますから、きれいな言葉ではないものもあったりしますし、ご当地言葉はたくさん出てきます。

それでも、古文書に触れているうちに思ったのは、きれいな日本語を使うべきとは言わないまでも、せめて流行言葉を使うのは「美しくないのでやめよう」ということです。

それは親しい人との会話であっても、です。

反対に、ものすごく高尚な言葉を使う人には畏敬の念を感じるのですね。

藤井聡太くんが注目され出した時に、確かまだ14歳くらいだったと思いますが、「僥倖(ぎょうこう)」という言葉を使っていて、只者ではないと心底思ったものです。

僥倖とはビックリするくらいの出来事、想像を超えたラッキーということでしょうか。

私はいまだこの言葉を使ったことがありません。

また、最近よく見ているYouTubeチャンネルに、古風な言葉をさらっと発する方がいて、自分もそうなりたいものだといつも思っているのです。

先日「艱難辛苦(かんなんしんく)」という言葉を、使い慣れたように話しているのを聞いて、嫉妬してしまいました。

艱難辛苦とは、たいへんな苦労や困難といった、おおよそ経験したくない辛さや苦しみのすべてを指しています。

艱難という言葉は、古文書でも見かけるのですが、今ではなかなかお目にかかれないので、古文書を通して学びました。

ですから、そのユーチューバーの方が、普通に「たくさんの苦労に耐え忍び」と言ってもよいところを「艱難辛苦に耐え忍び」と言うと、最初はよく聞き取れないのですね。

え?なんて言ったの?今。

巻き戻してもう一度聞き返しました。

「艱難辛苦」か・・・・スゴイな・・・・これ使ってるんだ。

キィー、悔しい~~~~~~!

今に私も使うぞ!

頭の中でリピートアフターミー。

そんなこんなで日本語に関して思うこと多数。日々、いろんな気づきがあって面白いです。

それは間違いなく古文書という古い世界を知ったからでしょう。

こうして、自分が日常で使う言葉には、以前よりもはるかに意識を向けるようになりました。

これもまた、自分にとっての原点回帰のひとつなのかもしれません。


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