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52Hzの鯨


   1

「部屋中が海みたい」

紺いろのカーテンをしめて 文庫本を片手にベッドに腰かける。初めてここに越してきた日と同じ言葉を呟きながら。

夜に似合いそうな色だった、店先でひと目惚れしたこのカーテンはいまでもいちばんのお気に入りであり、雨の夜には深海色に染まる部屋で読書に耽るのがなによりすきな時間となった。

傍らにはまだ温かいお茶とポータブルラジオ、それから一昨年の夏ごろ近所の工房で作ったシーグラス製ランプのやわらかな灯り。

雨音は今夜もわたしのこころに寄り添う。夜凪の、このやさしいときに包まれていたいと思う、いつも。 頁を捲る。ちいさく紙の擦れる音。控えめに流れるラジオの音、これは気分で周波数を選んだもの。

(――――・・・・の扉から。今夜は52Hzの鯨の物語をお届けします ――――)

聞き覚えのある単語が耳に入って、ふと、活字を追っていた目線を上げた。

「52Hz・・・・」

つい最近知った鯨の話を思い出し、ラジオのボリュームをすこし上げる。


   2

広い海の中、歌い続ける一頭の鯨がいる。

他の個体よりはるかに高い周波数である歌声は、仲間に届く事はない。

何年もの間 歌い続けている鯨。

その名は、

 『―――― 52Hz ――――』

1989年、米ウッズホール海洋研究所によって初めて聴取された歌声。

52Hzという 一般のそれよりはるかに高い周波数の歌声は、この周波数で鳴く世界唯一の個体であり、以降夏から冬にかけて定期的に聴取され続けている。

広い海の中、歌声でコミュニケーションをとる鯨たち。52Hzの歌声は彼らに届くことはなく、応答は今もまだ無いという。

世界でもっとも孤独な鯨、52Hz。まだ誰もその姿を見た者はいないが、近年ではこの鯨を見つけようと、『52』探索プロジェクトが発足されている。

そう遠くない未来、わたしたちも52Hzに出会える日が来るかもしれない。


   3

(そう遠くない未来、わたしたちも52Hzに出会える日が来るかもしれない――――・・・・)

雨音と声の波長の心地よさに 持っていた本を傍らに置き、重たくなった瞼を閉じた。エンディングテーマが遠ざかってゆく。

しずむ、しずむ

深い深い青のなか

ほのかに発光する生物たち

浮游するひかりの粒

わたしは 明滅する

ちいさなくらげになった、らしい

そこここから水泡(みなわ)は生まれ

上へ 上へと消えていく

鈍く瞬きながらあたりを見回す。

と、泡の向こうに彼女はいた。

おおきな尾ひれをゆらめかせ、ゆっくりこちらへ近づいて来る。

視界を覆い尽くすほど大きなからだ。

お腹の白い模様。

圧倒的、だけれども穏やかで

美しい、と思った。

わたしは明滅を繰り返し、

旋回する彼女の周りをまわるように泳ぎ続ける。

時折こまかな泡がたちこめ

横顔を包んでは消えてゆく

ひれを動かして生まれるのとは別の

水の流れを間近に感じるそのとき

きっと彼女は歌っていて

歌声は泡となり

この青に溶けているのだろう

( 孤独が内包された青、)

けれどもその楽しげな横顔に

歌い泳ぐ優雅な姿に

孤独、という言葉は見当たらなかった。

やがて彼女のからだが縦になり、

水面までいっきに上昇し始める。

わたしも上昇して、上昇して、

上昇して、――――

 

酸素を求め水面から勢いよく顔を出すとまわりは深海色で、だから目をぱちりと開いたまま、ここは自室のベッドの上、という現実を理解するまでにはすこしかかった。

ラジオからは最近話題のあの曲が流れているし、窓の外からは雨音もまだ聞こえている。読みかけだった本はそのままの場所に閉じて置かれていた・・・・。

紺いろのカーテンが夜の部屋を深海色に染めあげている。すこしだけ窓を開けたなら、柔らかい風に吹かれ水面のゆらぎのような青が壁いっぱいに映るだろう。

雨音は水泡(みなわ)の音に感じるのかもしれない。

わたしは瞼の裏で、深い青を歌い泳ぐ鯨のことを思った。