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403 Forbidden


────4032個。
私があの人に救われこの硝子の箱を棲み家としてから今のでちょうど4032個目の泡。この泡はあの人が零す涙に呼応して生まれるらしい。それは私だけが気づき、今日まで守り続けてきた秘密。

あの日──── 袖口が濡れる事も厭わずに、弱っていた私を掬いとった両手から伝わったやわらかな気配。水の粒に反射する光のあまりの眩さ、濡れた袖に透けて見えた白い肌。湖面のような静けさをたたえた瞳に私が映っていた、あの日から私はあの人のものになった。

ここでの暮らしはとても快適だった。なによりあの人がここにいる時間はすきなだけその姿を眺めていられた。ときには私のいる箱の前で頬杖をつき眠る事もあった。声はなぜかこれまで1度も聴いた事はなかったけれど、私はいつも密やかに想像していた。本を読むあの人の睫毛を伏せるときの音を、細い指先でページを繰る音を、時折目を細めて微笑むその微かな息づかいを、それらの発するささやかな音たちを。そうした穏やかな夜を、硝子越しに私たちはいくつも共有していった。


────ぽつん、

零れ落つ涙の粒がひとつ、心の内で音を立てた。あの人は本を読んでいるようで、けれども瞳はどこか遠くを映したまま静かに泣いていた。

ぽつ、ぽとり。 ぱたっ

頬を伝う涙は雨垂れになって膝の上に置かれた本に、私の内に音を落とし続けた。涙脆いあの人を何度か目にした事はあったけれど、こんなにも哀しげな姿は初めてだった。その時気づいたのだ、涙の音に呼応するように生まれるこの小さな泡に。そしてこの泡こそが私を生かしている事に。

その夜を境に泡の数は日に日に増えていった。私のいる箱の前に座って夜通し泣いていたときには、硝子越しにどうすることもできずにいる自分を何度も呪ってやりたくなった。私たちを隔てるこの硝子を。なによりやさしいあの人をこんなにも脆くさせるなにかを。


やがて泡の数が3802個目を数えた夜からか、本を読む代わりに手帳になにかを一心に綴っている姿をしばしば見かけるようになった。幾日か過ぎ、綴り終えた手帳を大切そうに抱きしめるとあの人は微笑んだ。泣き腫らした目で、そっと。硝子越しの私は心に僅かな痛みを覚えながらも、永遠のように思われた雨の終わりの訪れをどんなに安堵した事だろう。



────4033個。
前回からだんだん間隔が空くようになった。いま、あの人は穏やかな生活を送っている。たまには欠けたり満ちたりしながらだけれど。私を見つめる瞳の湖面は以前のように青く深く静けさをたたえている。あの夜、あの長い長い雨の夜、私は願ったのだ。この穏やかなるときを。そしていつかこの泡がすべて消え去る日を。私だけが気づき、最期まで守る秘密。

いっそ硝子で覆ってしまえばいい。あの日私を救ったあの人のやわらかな笑顔を。あの人を傷つけるものから守れるだけの強度をもった硝子の箱で。願わくは、この泡がすべて消え去るその時まで。




────403 Forbidden《アクセス禁止》