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受け身では届かない声を、誰かが傍にいる場所で聞きに行くことー「本読みデモ」のニュースを読んで。


先週中にしないといけないと思っていた作業が、今週末までで良かったと知って、少しほっとして、noteを書いている。

奈良は大雨だ。
長靴を履いて溜まっていたゴミを出しにいったら、昨年秋に柿収穫で使っていた長靴についた土がちゃんと取れてなかったみたいで、マンションの階段が土まみれになってしまったので掃き掃除をした。

思えば、去年の今頃はすでに不安が強くなっていた。
4月に診断を受けて休職をし、退職したあとで秋に柿収穫の季節バイトをして、そのあとは宿直の仕事やこまごました仕事をしつつ、雇用保険制度のお世話にもなって、どうにか生きている。応募している仕事の他にも、知り合いに仕事を紹介してもらえて、雇用保険がきれたあともどうにかなりそうだ。

うつの時に父親に「いまの日本では、飢えて死ぬことはないから大丈夫」と言われた。たしかに、2020年代の日本では、たいていの場合はその言葉があてはまるし、幸い、自分の場合もそうだった。家事もままならない時期に、食料を届けてくれた知り合いの存在にも救われた。

一方で、SNSを見ていると、140字に収まる短い文字列だけで、心に大きな傷がつくような出来事が情報として目に入ってくる。理不尽な死が、あまりにもたくさん起きている地域がある。

10年ほど前、初めての海外旅行でマレーシア人の友人ができたときから、ムスリムの友人に、欧米や日本での報道の偏りを教えてもらった。IS(イスラム国)の報道のされ方、メディアが作り出すイスラム教徒のイメージ。

自分なりに勉強しようとして、いろいろな本を読むようになった。
イスラム教や、パレスチナのことも。

数年前、ぼくがパレスチナ問題に興味があることを知っていた友人が紹介してくれた、岡真理さんの講演を聴きに行った。

そのあとで岡さんがガザの状況を著した「ガザに地下鉄が走る日」を読んだときの、胃がずっしりと重くなるような感覚は、今も忘れない。仕事中も、ふとした瞬間に頭によぎり、しばらくその重みが続いた。その感覚は、ホロコーストを経験したユダヤ人の精神科医、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を読んだときに近かった。ひとつ違うのが、それが過去の出来事ではないこと。

当時は、今ほどこの問題に注目している人は周りにいなかったし、誰かに伝えても、「戦争の話はしんどくて…」と言われて、話す人をちゃんと選ばないといけないなと、反省することもあった。

いまは、友人にも関心を持っている人は何人もいるし、SNSでも、抗議の声がたくさんあがっている。デモもたくさん起きている。

当時に比べたら、話せる人もいる。
それでも、あまりにも残虐な話を目にすると、心に太い釘が刺さるような感覚になる。

「どんなにひどい話を誰かに聞いたときの二次受傷も、当事者の苦しみに比べたらマシだ」
そう思って、これまでの人生で、いろんな人の語りや経験を、なるべく知ろうとはしてきた。
だけど、マシなはずの、”知ること”だけでも、あまりにも辛いこともある。


そんなことを思っていた日に、
「本読みデモ」の話を知った。


街頭や、大学構内で、パレスチナに関する本を路上に並べ、通りすがりのひとと一緒に、静かに本を読んで学んだり、感じたことを共有したりするという、静かなデモ。

デモの参加はハードルが高いとか、大きな声が苦手、という人でもできること。

そんな場所があることで、一人で本を読んで苦しんでいた僕みたいな読者が、SNSで知って、心を痛めている人が、誰かに喋りにいくことができる。

苦しみを共有できる場所があれば、知ることを諦めないですむかもしれない。ひとりで抱えるのがあまりにも苦しい人も、一緒に抱えてくれる人はいれば抱えられる。


「知ったところで、何になるんだ。
日本人が知って何か行動を起こしたところで、この状況を変えられるのか。」

そんな思いは、何度も抱いてきた。

それでも、日本に住むパレスチナ人が、「周囲の日本人に、この状況に一緒に抗ってほしいと呼びかけようとしても、歴史的な経緯や、圧倒的な力の不均衡を説明するところから始めないと、いまだに理解してもらえない」という語りに触れ、「知ってもらえていない」ことの痛みや孤独を思うと、ただ知ること、知識を広く共有することの大事さを感じる。


「知ったところで、何になるんだ。自分には、何もできないのに。」

昔、学校で、アフリカで飢餓で苦しむ子どもの映像を見た時にもそう思った。感想文にその思いを書いたら、当時の担任の先生が言ってくれた。
「それでも、まずは知ることが大事だ」と。

その意味を、当時の自分はよくわからなかった。


それから10数年、日本で、いろんな辛さを抱えた人の語りを聞いてきた。
プライベートでも、ボランティアでも、仕事でも。
性被害、暴力、家族の問題、障害があるゆえの苦しみ、大切な人の死にまつわるトラウマ。

僕自身も、辛いときに、いろんな人に話を聞いてもらい、助けてもらった。

ひとりで抱えていた苦しみを、誰かに知って、受け止めてもらうことで楽になることは確実にあって、たとえ状況が変わらなくても、知ってくれている、見てくれている人がいることの安心感は大きい。

「すぐに解決できないことでも、見守ってくれる目があれば、それ自体が助けになる」
精神科医の帚木蓬生さんが、”目薬”という言葉でも、伝えている。


目薬があっても、たくさんの人が死んでいく。
残虐な方法で殺されてしまう。


それでも、知られない痛みより、知られた痛みの方が少しはマシだと思いたい。情報戦で、国際社会に、強者にとって都合の良い情報が流されるこの時代にはなおさら、知ることの意味はきっと大きい。
そして、学べば学ぶほどに、小さくても、できることがあることがわかっていく。


リアルな場所でも、オンラインでも。
誰かに本を進めることも、その1つなのかもしれない。

「静かなデモ」が、広がっていきますように。



ほんの紹介

小さな小さなデモとして、ぼくが読んだ本を紹介しておきます。

・ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義(岡真理さん著、2023年12月、大和書房)
緊急出版された本です。講演の内容を本にしています。わかりやすいです。


・ガザに地下鉄が走る日(岡真理さん著、2018年、みすず書房)
読んでください。


・ネガティブケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力(帚木蓬生さん著、2017年、朝日選書)
目薬”について書かれた本です。こちらも、何かの助けになれば。


たまには遠くを眺めてぼーっとしようね。