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【小説】多角形の月

最初の月は五角形だった。

5月の夏日。酔っぱらった松井の歩みは回転寿司よりも遅い。シラフだとその脚の長さでわたしを早足にさせ、軽口まで叩くくせに。足音が聞こえなくなって振り向けば、彼は立ち止まって空を見上げていた。

「なにやってんの」
「…月が五角形に見える」
「なにそれ。星じゃん」
「え、嘘。あかりって星を五角形だと思ってんの?」

酔っ払いにツッコミをいれられるほどイラッとくることはない。案外広い肩に軽めの右ストレートを撃ち込む。松井は切れ長の目をさらに細めて「いてー」と笑った。その笑顔がかわいく見えて、誤魔化すように月を見上げる。だけど、わたしには角が見えない。いつもの月だ。

あの夜、もう少し呑めば良かった。
そうすれば松井と一緒に五角形の月を見れたかもしれない。


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ゼミが金曜の6限じゃなかったら、こうはならなかった。
最初のゼミの後の懇親会。大学3年のその時まで、同じ学科でも松井とはほとんど喋ったことがなかった。お互いに名前と顔が一致しているくらい。しかしその日の2次会ではすでにサシ呑みになっていた。理由は3つある。食とお酒の好みが似ていたこと。好きなラジオ番組が同じだったこと。わたしたち以外のゼミ生がみんなお酒が強くなかったこと。

あれから毎週のようにゼミの後呑みに行く関係が続いている。

「あかり、松井って今日休み?」
「いや、知らないけど」
「え〜あかりも知らないなら誰も知らないじゃん」

いつの間にかゼミ生以外の人からも松井とセット扱いされるようになっていた。”松井のことをいちばん知っているひと”と思われていることがくすぐったい。松井もわたしのことを誰かに聞かれたりするのかな。そう考えるだけで自然と口元が緩んでしまう。

「あかりと松井くん、付き合わないの?」

いつだったか美咲にそう言われたことがある。洋画のコメディのようにわざとらしく首を振って「ないない」と返せば、美咲は「松井くん、良いと思うけどな」と笑った。

いま思えばそれがきっかけだったと思う。
友達の美咲に対して「わたしの方が松井の良いところ知ってるよ」とモヤモヤした。理由が分からず自己嫌悪に陥り、その夜は珍しく悪酔いしたのだ。
いまなら分かる。嫉妬だ。わたしは美咲に嫉妬していた。


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松井は、お酒を飲んだ後の遠回りがいちばん好きらしい。
彼はよく多角形の月を見た。

「いーち、にー、さーん、よーん、ごー…今日は、ろっかっけー」
「鳴き声みたい。もっとニワトリっぽく鳴いてみて」
「ロッカッケー!」

「今日の月は四角形です」
「正方形?長方形?」
「ううん、台形」

「お!初めて見た!三角形のお月さん!」
「三角形…?あれ、半月は一応角が二つってこと?」
「うーん、どうだろう。いつもの月は角無しか二角形になるのかな」
「そっか。わたしも三角以上のお月様、見たいなあ」

ただの酔っ払いの戯言だって分かってる。
だけど、松井が見る多角形の月が好きだった。


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木曜日のバイト終わり、松井から「明日の夜空いてる?」と連絡があった。珍しい。確認しなくたって毎週ゼミの後は空けているというのに。そしてそれを松井も知っているはずなのに。もちろん、と返すとすぐに時間とお店の場所が送られてきた。ゼミの後わざわざ別々にお店に向かうなんて初めてだ。
誰かに一緒に行くところを見られたくないのだろうか。それか何か大事な話があるってことなんだろうか。大事な話?いや、ううん。そんな。

だって、それって、もしかして。


ゼミの後一目散に教室から出ていく松井を目で追ってから、お手洗いでほんの少しお化粧を直す。昨夜は上手く寝付けなかった。それでも鏡の前には顔色の良いわたしがいて、いつもより丁寧に巻いた髪は夕方になってもふんわりしている。張り切りすぎていると思われない絶妙なラインは我ながら完璧だ。

約束の10分前にお店に着けば、松井は個室の予約を取っていた。想定外のことをされると困る。なんで。緊張するじゃん。

「おつかれーっす」

個室の扉を開ければ松井は先に来ていて、そのまま店員さんにいくつか注文を済ませた。生2つ、だし巻き卵、煮込み、燻製ポテトサラダ、エイヒレ。
どれもわたしの好きなものだ。

先週と同じようにゼミの話をして、呑んで、ラジオの話をして、食べて、おかわりを頼んで。いつもより吞むペースも喋るペースも遅くて、全然アルコールが身体に回っている気がしない。
そわそわしたまま、もうすぐお店に入って2時間が経つ。

「あのさ、」

きた!そう思って姿勢を正すも、松井の口から出た言葉は「もう一軒付き合ってくんない?」だった。

「え~…どうしよっかな」
「頼むよ。ここも次も俺が出すから」
「うーん…」嘘。付き合うにきまってる。
「個室じゃなくてやっぱ普段通りにすりゃ良かった」

もう少し粘ろうかなとも思ったけど、眉を八の字にした松井がかわいかったからすぐに折れることにした。

「…ピーマンつくね、食べたい」
「お、良いね。行こう」


駅を通り過ぎてさらに10分程歩く。住宅街は静かで、夏の虫の声がよく聴こえた。松井もあまり酔っていないらしい。わたしは、すこし早足になる。

「今日、満月かなあ」
「うーん、ちょっと右上欠けてない?」
「…言われるとそんな気もする」

テキトーだなあ。そう言って笑う松井の横顔を、もっとちゃんと見たかった。同じ月を見て話をしたのは初めてだったのに。


小さな看板の横、階段を降りればお気に入りの焼き鳥屋。
つくねには卵黄だと思っていた。だけど、このお店ではつくねには生ピーマンだ。半分に切っただけの生ピーマンを器にして、大きなつくねがその存在を主張する。色と食感のコントラストがたまらない。

パリッとピーマン。アツアツのつくね。キンキンな生ビール。
3種の神器を前に2度目の乾杯。ああ、おいしい。これぞ別腹。生のピーマンがこんなにおいしいなんてこのお店で食べるまで知らなかった。ね、松井、やっぱりここのつくねおいしいよね。お代わり、頼んじゃう?

「俺、美咲と付き合おうと思ってる」

パチッとスイッチを押したみたいに、お店の喧騒が消えた。表情が強張ったのが分かる。意図的に動かさないと顔のパーツが動いてくれない。心臓がうるさい。違う。まずは笑え。笑え。笑え。

「えっと、付き合おうと思ってるって、松井がそう思ってても美咲がどう思っているかなんて、」

言いながら分かっていた。全部、全部分かっていた。

「…実は、昨日美咲から告白されて」

そうだ。美咲は松井のことが、

「明日返事しようと思ってる」

なんで。どうして、今日。わたしにそれを。

「付き合ったら、あかりと2人で呑みに行くの不安にさせるかなって思って…というか、俺が逆の立場だったらあんまり良い気しないと思うし。だから、グレーかもしれないけど、今日1日返事待ってもらった」

松井の顔が見られない。無意識にジョッキに手を伸ばした。ぐっ。ビールが苦い。ねえ、松井。こんな話なら二軒目まで引っ張らないでよ。最初の店で話してよ。もう一度、ビールを煽る。苦い。苦しい。吞み込め。洗い流せ。大丈夫。出来る。言え。

「うん。話してくれて、ありがとう」

ごめん。ごめんね松井。
わたしにはまだ、おめでとうが言えない。


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さっきあれほど呑んだのに、結局馴染みの缶ビール。
カシュッ。こちらの気持ちなど関係なく、いつだってプルタブは小気味良い音を立てる。良かった。苦いけど、ちゃんと美味しい。

あの後いてもたってもいられなくて、咄嗟に出た言葉が「明日バイト朝番だったの忘れてた」だった。そそくさと帰る準備をするわたしに、松井は「無理言ってごめん」と困ったように笑った。

松井は全部分かっていた。
アルバイトを贔屓する苦手なパートさんがいるからわたしが朝のシフトに入らないことも。美咲と松井が付き合ったら、3人で呑みに行く選択肢が無いことも。わたしが、松井を好きだということも。
きっと全部分かっていた。分かっていて知らないふりをしてくれた。それをわたしが分かっていることだって、松井は分かっている。そんな不器用な優しさが痛かった。だけど、そんな松井が好きだった。大好きだった。

横断歩道が点滅し、信号の赤が視界にぼやけて広がる。
立ち止まって缶ビールを煽ると、月が見えた。大きくて、澄んでいるそれは、わたしが初めて見る多角形の月だった。急いで角の数を数えようとする。けれど数え終わる前に月はぐにゃりと形を変え、霞んでしまう。何度挑戦しても、何度目を擦っても、結果は同じだった。手の中の缶ビールはぬるくて、すこししょっぱい。

それでも見た。わたしにも見えた。多角形の月。


松井が多角形の月を見るのは、ある程度酔っぱらった日だけだ。
シラフの美咲と一緒ならきっとあそこまでは呑めないだろう。

意地が悪い考えだろうか。それでも。
どうか多角形の月だけは、わたしと松井だけのものでいて。
松井と同じ月を見られるのは、わたしだけであって。

たとえ、酔っぱらいの戯言だとしても。




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