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操縦士が近視・乱視を治すには

昭和時代まで、職業パイロットになるためには遠見視力が良いことが殆ど絶対条件でした。裸眼視力が1.0に達しないため、航空大学校や大手航空会社の自社養成パイロット受験を泣く泣く諦めた方が沢山おられたものです。1980年代まではトランスポンダと連動した二次レーダーが普及しておりませんでしたし、多くの航空路でNDBを辿って飛んでいましたから、今日以上に操縦席からトラフィックや地文を目視で確認する必要があったことは云えます。

その後、視力についての縛りは緩くなり、矯正視力で1.0あれば航空身体検査で引っかかることは無くなっております。それでも遠見視力が1.0出ずに困っておられる方をよく見かけます。

視力を矯正するには眼鏡を使用するか、コンタクトレンズを装着するのが一般的です。問題は度数が強い(ディオプテール値が大きい) レンズを使わねば見えない場合、画像の歪みや遠近感に影響が生じるため、不適合となるのです。遠くに飛んでいる機体を認識する際や、離着陸時の直線感覚を誤って認識すると、当然事故につながる恐れがあるからです。

近視の治療を抜本的に変える治療法として、1990年代頃からレーシック治療が行われ、多くのエアマンがこの治療を受けました。これは旧ソ連で開発された技術で、メスやレーザー機器などを使って角膜に同心円状の切込みや角膜中間層の削り取りを行い、変形させた角膜でレンズ効果を矯正して視力を調整するものです。しかしレーシック治療により視力が劇的に改善した症例を20-30年間経過観察してみると、実は大きな問題も見つかっています。角膜は解剖学的にそれぞれ異なる5層もの細胞が積み重なって出来ており、一番内側にあるデスメ層が最も重要です。レーシック治療が稚拙で角膜の細胞層に深い傷をつけることで、一時的に視力が向上しても、長年経過するとデスメ層にまで影響する細胞変性が生じる事例があることが分かってきました。ですから若年で質の悪いレーシックを施すと、キャプテンとして活躍する50-60歳代に達するまでに、見え方のことで苦労をされる可能性があります。

代わって近年よく行われる治療として、オルソケラトロジーが挙げられます。これは謂わば大型のコンタクトレンズを眼球正面に長時間装着して、眼球自体の球体の歪みを補正する治療法です。特に就寝中に装着していると、昼間の遠見視力が改善します。角膜や強膜に傷を付けることも稀で、若年者の近視にも良い適応があります。問題は治療が高価なうえ、一定期間装着しても近視が永続的に改善するかという点で、治療を短期間で止めると元に戻る可能性があります。それでも起床してから就寝するまで眼鏡やコンタクトレンズなしで操縦や日常生活が送れるのは、生活の質からみて素晴らしいことだと思います。

円錘角膜という、角膜が盛り上がる眼の病気があり、これに対するオルソケラトロジーの効果は限界があるのも欠点です。円錘角膜は比較的良くある眼疾患で、数人のエアマンがこの病気で大臣判定を受けたことがありましたが、角膜の肥厚が顕著な場合、クロスリンキングという角膜の肥厚を圧迫するような治療を行います。しかし治療後に度数の強いコンタクトレンズを使っても歪みが補正しきれず、事業用の場合では大半が不適合の結果でした。

20歳前後の若者は、学科試験の座学や航空英語の学習で、勉強時間が長いためか、急速に近視となる方が多いです。僅か半年前に新調した眼鏡でも、充分な視力が出ずに不適合となることが度々あります。最近の大学生は小学生時代からスマホに親しんでおり、多くのPC作業をスマートフォンの小さな画面でこなしています。細かい文字を凝視し続けていると近視となるスピートが早まるのでしょうか?

アトロピン1%溶液を連日点眼して、チン氏帯を弛緩させて近視を悪化させない治療を行っている方もお見受けします。アトロピンは散瞳作用があり、低用量でも長年にわたって連用すると、操縦士の眼にどう作用するか不明です。日本では健康保険で認められていない治療法であり、安全性と有効性に実績があるとは言えません。

「目と耳はパイロットの命」という格言は、航空機のコンピュータ化や自動化が進んだ今日でも当てはまります。今日の航空機の計器盤はグラスコックピットが一般的で、アプローチチャートやグリッドマップをタブレット端末で見ながら操作します。スマホやiPODを常用している若者が、20-30年後に視力や聴力がどうなるか?今から考えておく必要があります。


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