発達障害日記0511(合理的配慮・・・”調整”の話)

 発達障害のことをあまり語らない発達障害日記、本日は「障害」のことを語ります。
 いちおう、福祉を勉強中の大学生として、発達障害当事者として、障害者差別解消法における2024年4月から義務化された「合理的配慮」の話。

・「そもそも合理的配慮ってなに?」国立アートリサーチセンターの冊子をご紹介します

 合理的配慮、とは、「誰もが目的を達成するために、公平な土台に立つ機会をつくる」ことです。

 そもそも合理的配慮ってなんだろう・・・?というところで、とても分かりやすいな!と思ったPDFを共有しますね。

 国立アートリサーチセンターによる『合理的配慮のハンドブック』です。
https://ncar.artmuseums.go.jp/upload/L_20240411_deaibook_web.pdf

 美術館側の視点に立ち、合理的配慮の具体的なやり取り例を紹介していて、美術館のみならず小売りやイベントスペースなど、すべての「人が来る場所」で参考になるのではないでしょうか。
 また具体例だけではなく、国連の条約批准のための法律整備である経緯、国際的な障害の捉え方「障害の社会モデル」など、非常に役に立つPDFだと思います。
 
 合理的配慮は国連の定める障害者の権利に関する条約(日本は条約批准国)のなかの第二条 定義に以下のように記されています。

「合理的配慮」とは、「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」

外務省HP(https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000899.html)2024/5/8  17:00閲覧

 ちょっと難解ですね。

 わたしは、国立アートリサーチセンターのPDFの「誰もが目的を達成するために、公平な土台に立つ機会をつくる」ということばがしっくりきます。
 合理的配慮とは、その個人がどのように目的を調整できるか?という施設と本人との対話であり、互いの落としどころを探し合意するプロセスと実行です。施設と個人が双方話し合うので、配慮という字面から見るイメージとずいぶん異なります。
 これはたぶん、ことばの問題です。そのため「合理的配慮」ではなく、「合理的調整」ということばを採用したいと思っています。

・『ハンチバック』市川沙央氏が言っていた合理的「調整」


 『ハンチバック』を、わたしは読んでいないのですが。
 第169回の芥川賞受賞作品であり、作者が重度障害者という背景があるそうです。
 著者の市川沙央氏が『障害者.com』というweb媒体で語った言葉を引用します。

「作家としてここは『言葉』について語ります。『合理的配慮』という訳はほとんど誤訳と言ってよく、今からでも『合理的調整』とするべきだと考えています。例えば『rights』は『権利』ではなく『権理(権理通義)』(by福沢諭吉)と訳すべきだった、つまり『利』という字のネガティブな印象のせいで人権を理解できない国民になってしまったという話もあるように、こうした言葉の誤選択は国民の精神性に悪影響を及ぼし尾を引いたりするので、私は意地でも『合理的調整』と書いていこうと思います」

障害者.com『「合理的配慮ではなく、合理的調整と呼ぶべき」芥川賞受賞作「ハンチバック」著者、市川沙央さんインタビュー』https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=3038 2024/5/8  17:00閲覧  

 強く同意します。
 そもそも、外務省のHPの「障害者の権利に関する条約」の定義にも、「配慮」ということばは存在しません。むしろ市川氏の言う「調整」ということばの方が明確に登場しています。

 国立アートリサーチセンターのPDFにもあった通り、合理的配慮は配慮などではなく、施設と個人のすり合わせと合意のプロセスを持つ「調整」です。それは個人の人権が建築物やシステムの構造で損なわれていることを最大限復帰させるための建設的なディスカッションと結果です。

 わたしは放送大学で福祉のコースを学んでいますが、国連の条約の効力はその国の憲法よりは下位ですが法律よりは上位に位置すると習いました。
 配慮、という柔らかいことばには違和感を感じます。もっとロジカルでシステマティックな話だと思うのですが。


・機会の平等性はシステマティックに、怜悧に運用されるべき


 国立アートリサーチセンターによる『合理的配慮のハンドブック』では、機会の平等性とは「あらゆる人に同じ対応をする」ことではないと書いています。背が20センチ低い人には20センチの台を、30センチ低い人には30センチの台を渡しますが、既定の身長の人には何も与えられません。ある意味、人によっては不平等・・・つまり「ずるい」と感じる対応でしょう。
 だからこそ、「配慮」などという感情によって左右されるニュアンスこそ論争の元になると考えています。

 既定の身長の人でも、絶対的に来る「老化」において、なんらかの「調整」が必要になるでしょう。これは絶対にです。老いる前に死ぬことは、よほどの事故か、重篤な病にかからなければありえません。また、事故でも病でも即死でなければむしろ合理的調整が必要性が高いです。現代日本において、即日に即死するような事態は相当なケースでしょう。
 ですから、生涯的なトータルで考えたとき、ほとんどの人が合理的調整を受けると考えて良いはずです。それはどのタイミングで受けるか?という時間の問題、そして個人の調整程度の問題になるはずです。

 福祉は、個人の好悪や善意に頼る運用を行いません。どんな悪人でも、どんな嫌な人でも、人権が損なわれていれば補填するためのサービスを提供するのが福祉です。過去、日本にあった欠格条項(素行不良者などを生活保護の対象外とする項目)は1950年に撤廃されています。
 
 福祉は、もっとシステマティックに、怜悧に運用されるべきだと思います。
 優しい「配慮」より、システマティックな「調整」を。
 その方が、受ける方も気が楽だというものです。受ける方、とは、先ほど書いたとおり、「たぶんほとんどすべての人」ですが。
 
 
 


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