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絵を描くこととか

いつかの自分が変化を感じるための備忘録、兼日記。
日々の出来事、考えたこと、気づいたことを書き記している。

朝夕の服用を忘れがち。
今日も思い出したのお昼と夕飯の後だった。
うーーーん。寝る前の服用は必ずするのに。なぜだ。


絵を描くこととか

友人から、有名イラストレーターがトレース作品で問題を起こして炎上した、という話を聞いた。
あえて名前は出さないけれど、とっても人気な歌手のメインビジュアルを担当する経歴を持って、かつ最近炎上した人。
友人も僕も絵を描く人なので、こういう話は少し気になる。

トレース、パクリ、オマージュ…それぞれの違いを明確にせよ、と言われると、僕も結構困る。
僕の定義と世間の定義は同じじゃないだろうなと思うし、作家側の定義よりも、見る側の定義や価値観の影響が大きいなって思うから。

そのイラストレーターさんの絵は何度か何枚か見たことがあった。
高校生とか若い世代を中心に「エモい」と言われる画風なんだな、と思っていた。
(好きか嫌いかと言われると、僕は「別に」という正直な意見)
中の人は性別も年齢も不明とのことで、勝手にお若い方が描いているんだろうな〜って思ってた。
イリヤ・クシノブさんみたいな、女性のポートレートを描く人なんだな…と。
インスタグラムやピクシブで見た程度でしかなかったんだけど、なんというかこう、ファッション雑誌の1ページみたいな絵だなぁと思ってた。
その違和感に近い感想は、トレースが原因だったのかなぁと思う。

僕も絵を描く時の練習として、写真をトレースすることはある。
人物はあまりやらないけれど、植物とか景色とか。
人物をトレースすると、その作品はやっぱりどこか違和感を感じる。と、僕は思う。自分の絵じゃないような、「描いた!」という気持ちにならないような。
トレースをする意味はなんなのか、というと僕の場合は、造形や色味についてじっくり知る時間であって、デッサンに近いかもしれない。
ただその状況でデッサンができないから、写真に残して後でトレースするとか。
そういえば、去年はタチアオイのトレースたくさんしたなぁ…

ということで、僕も写真をトレースしたことはあるんだけど、それを「オリジナル作品」として発表するとか、そのままクライアントに提出するとかは、できない。
やっぱり「自分の絵じゃない」違和感もあるし、あくまでも僕個人の時間で練習の方法としてのトレースだと思うから。


絵を世に送り出すこととか

ちょうど僕が今の会社の入社試験を受けている頃、東京オリンピックの公式エンブレムに盗作疑惑が出ていて、世間を賑わしていた時期だった。
もともとオリンピックに興味関心が弱かったものの、連日の報道に僕もドキドキしてた記憶がある。

そして入社試験、面接の時に面接官(現在の上司)に言われたのが
「公式エンブレムの盗作問題について、どう思いますか?」という質問。

僕は、
デザインにおいても音楽においても、芸術分野で「完全なオリジナル作品」を作り出すのは難しいことだと思っている。
クリエイター自身が必ずなにかしら影響を受けているし、公のコンペや企業・団体が関わってくると、本人の創造性以外の問題も出てくる。
こうした作品は世に出すと、価値をつけるのは発表した側じゃなくて、受け取った側だと思う。
自分も制作を経験してきたものとして、改めて、「作品は自分のものではない」と感じる。さまざまな関係者の中で作られるものだと思う。
……みたいなことを、答えた気がする。

今回のイラストレーター炎上の件で思い出したんだけど、基本的にこの僕の考えは、今も同じ。


作品を価値づけることとか

僕は大学の卒業制作に、「自分を守るための作品」というコメントをつけた。
小さい時から絵を描いたり、粘土をこねたり工作したりすることが好きだった。
高校でも美術を勉強できる学科に進み、いろんな作品を制作してきた。
その時までは、創作は自分の世界の全てだったと思う。主観で始まり、主観で完結していた。

ところが大学に進学して、美術「教育」を学び、大学附属のギャラリーで学生キュレーターとして仕事をすることで、その世界はちょっとずつ変化してきた。
さらに学生広報部の一員としてデザインを仕事にしたり、イラストを提供したりすることを通して、その世界も変化してきた。

僕が作る作品(絵も文章も)は、僕の主観を通して与えられた世界を見て、編集して、再構築しされたもの。
その「良さ(悪さ)」の価値は、作者の僕の視点と、作品を見た人の視点の両方から作られる。
そして世間的に認知される価値観は、圧倒的に「見た人側」の価値観だ。

僕が卒業制作にこめたのは、「自分のために作成する最後の作品」。
作家として生きていかないことはなんとなく想像していたし(今もしてる)、社会に溶け込む儀式的なものだったなーと思う。
とはいえ、今も自己満足の絵(や文章)を描いてSNSで出して承認欲求を満たしたりしてるけど。

今回のイラストレーターさん炎上の件は、自業自得な部分もあるけれど、周囲からの価値づけに振り回されたな…という印象もある。
時の人として有名になって、多くの人や資産を巻き込む活躍に成長していってしまった。もっと早い段階で、自分の作品に対する態度を顧みる機会があればよかったのにな。
それができなかったのは、本人の驕りや怠慢かもしれない。周囲の価値づけや賑わいが、そうさせなかったのかもしれない。


創作し続けることとか

ここまで文章を書いてきて、僕はあの卒業制作できちんと区切りをつけられていないな、と改めて思ったし、あれは間違いだったかもしれない、とも思った。

この備忘録も「いつか未来の自分が、自分自身の変化に気づくために」という目的で書き続けている。
その行為は、結局「自分を守るため」でもあるんだろうなーって。
まあ…何かを作り続けることが、人生の癖になっているのかもしれないけれど。

むしろ、大学という場所や肩書きから解放された分、自分のために創作することが増えたかもしれない。
創作の時間、作品数は圧倒的に減ったけどね!

今後の人生も、創作しつづけていくんだろうな。
ふわふわとした意識で、ゆるく。

デザイナーもイラストレーターも、炎上しでデジタルタトゥーができた後、どうしているんだろう。
こっそり創作を続けているんだろうか、信頼回復に努めて創作や制作を続けているんだろうか。それとも、創作をやめてしまったのだろうか。


明日は

明日は出勤日。
土曜日なので、すこし賑やかになるかもしれない。雪積もったから、そうでもないかな?
出力制限を意識して、明日も頑張る。

サポートしていただいたものは、毎月のAdobeCCのお金にあてさせていただきます。頑張ってデザイン・イラスト制作するよ!