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単語10連ガチャ Vol.1

こなまるです。


・「ユニット」

ユニットの略称ってある。タッキー&翼がタキツバだったり、ウエンツ瑛士と小池徹平で「Wentz and Teppei」の頭文字を取って「WaT」だったりするアレだ。
WaTに関してそうなの?と思った方もいるだろうが、僕も今調べて「そうなの?」と思っている。KAT-TUNじゃん。いかのおすしじゃん。
言ってしまえばバドミントンの「オグシオ」とか卓球の「みうみま」とかもそうだ。みんな好きだね、頭文字のこと。あいうえお作文、愛故の散文。

逆から行こう。四文字のひらがな的な単語って、逆にユニットの略称の可能性がないか?例えばホラ、タンポポ……ぽぽ????
ないかも。選出をミスった。

「ユニット」は「unit」で「uni」と「it」な気がするから、訳すと「接続」と「それ」で「繋がれた何か」だろうか。
正しくは「構成単位」らしい。
急に語学の予備校になっちゃった。英単語って分解すると覚えやすいらしいですね。

・「解説」

「ユーモアの解説は冷めるし、伝わってない以上よくない行いである」という言説が一般的だ。まあその通りだろうし、わざわざ言説になるのもそれをついついやってしまう人が多いからだ。
でもやりたくね?

思うに、ネタのタネ明かしも一種のネタである必要がある。
マジックのタネ明かしネタが一気に流行った時期があったように思うが(というかYoutubeはずっとそうかも)、あれも納得と技術のスゴさが二重に伝わってこそ面白い。

「マジックのタネ明かしマジ冷めるわー、おもんない」という人も居なくはないだろうけど、少なくとも伝わんないギャグを言った人よりはウケるだろう。ネタが伝わってこそギャグだし、タネが明かされてないからこそのマジック。そこをオープンにした時に面白いのは圧倒的にマジックだ。

「自分にしかわからない狭いユーモア」の面白みは「わからない人もいる」ってとこで、真空ジェシカが「俺でなきゃ見逃しちゃうね……」と言った時にネットが少し揺れたのはこれの是非が感性の問題だからな気がする。
でもハンターハンターってまあまあ皆わかるし。揺れてる方が騒ぎすぎな気もする。真空ジェシカって3年連続決勝ですよ?もう受け止められていい時代だと思うのに。

ネットミームでしか話さない人たちVSアンチ・ネットミームでしか話さない人たちの戦いはどうやっても収まることはないと思うから、シンプルに距離おきゃいいのにね。ディベートってそういうもんじゃないだろうけど、現実はディベートじゃ解決しないし世間の風潮の問題な気がする。
なんでTwitterでディベートするんですか?(今更)

大喜利でも結構ある。補足的な説明ツッコミを司会がしたり、サツマカワRPGが駄々をこねながら居座ったりする芸風がある。真空ジェシカのわかりづらいタイプのツカミもそう。「ともはるさん」コーナーのこと。でも面白い。

それ自体が一種のキレ芸的で、タネの明かし方が面白かったら成立すんじゃないかな?みたいなことをうすぼんやり思っている。そんなに怒ることじゃないよ。もっと楽しい前提でやってよ。

・「斜め」

「えっ、内斜視かわいい~」って言葉をこの前聞いてなんかめちゃめちゃ衝撃だった。深く掘り下げるとでっかいイヤな話題になってしまいそうだからあんまり大きく言えないんだけど、「いいんですか???」という気持ちが強い。
それでいったら「えっ、多動かわいい~」ってなっていいはずだけどな。

「斜に構える」って最初に言いだした人すごい。
「最初に言いだした人すごい」も最初に言いだした人すごい。
なんてったって、メタ認知な慣用句の創始者みたいなところがある。「そもそもコレって~」っていう話題作り自体がちょっと哲学的なんだよな。

「コンニャクの作り方調べたんだけど、なんで大昔の人間はこれやろうと思ったんだよwww」みたいなのも一旦斜に構えないとできない言い方だ。

ネットって人の行動が記録されて、それを観点違うまま見て、それがまた言葉として残せるからメタのオンパレードになっている。前の時代を知らないからなんとも言えないんだけど、高度情報化社会というか「メタ革命」みたいな気持ちになっている。

斜に構えること自体、たまには必要だと思っている。明らかに捉え方が広がる。
ただその姿勢がずっと続くのが問題で、それがホームポジションになったら人と対面で話せなくなるんだろうな。正面に構えるのに逆にエネルギーが必要になって……もうなってるかも。

えっ、しゃにかま(斜に構える)だ、かわいい~。

・「好意」

本当にランダムで語りにくいのが来てしまったんだけど、好意って全然受け取りきれない。なんでかわかんないけど、自分の好意も相手の好意も自分事に思えない。

アクションに関連しないというか、何を持って好きとするかの判断をしかねる。
面白かったら腹抱えて笑えばいいし、悲しかったら泣けばいいし、嫌いだったら最悪ぶん殴るか関係絶てばいいんだけど、好きってなにすんの?amazarashiも虚しい時はどうすりゃいいのって言ってました。なんか感情の行き場がなくないか?
東大医学部おじさん「感情の行き場がなくないか?」

例えば友好だとして「会話を続ける」とか愛情だとして「抱きしめる」とかになるなら、だいぶ対面の相手が必要やんな。

と思ったんだけど、感情って大体全部表情に出る。虚しい時は真顔になればいいし、好きな時はニヤけるのが正解なんじゃないですか?
お前が好きな曲をリピートする時、ニヤけながらループボタンに指を伸ばしてないか?ハイ論破。

してねえよ。そう思いながら猫を撫でニヤけている。はいねこすき、論破。

・「鰹節」

お好み焼きのかつお削り節を初めて見た時の感動ってもう味わえないのか。

既知のものとして消費されてるけど、あの見た目のアホさ加減への感動って見過ごされていいの?もっとデジタルたき火みたいにしようぜ。4時間かつお節が揺れて湯気が立つさまを眺める動画。踊るかつお節の動画ないわけ?

あった。ヤマキが揺れの大きさで勝負してて、一瞬だけ面白かった。
でもやっぱかつお節の面白さって一瞬だわ。僕が間違ってた。

・「一発屋」

エンタの神様芸人・爆笑レッドカーペット芸人って、飽和して世間的にもう要らないしウケない!って廃れたのかもしれない。それでもインターネットではまだ擦る人がいるし、テレビっ子の青春に近いものがあったんだよな。

テレビにおける芸の共有に関して、一発屋の存在って大きかった。ネットミームはそれを代替してる気がする。それくらい「既知のパワーワード」みたいなものって芸事の基本なんだろうな。TikTokやShort文化はその最たるものかも。
ちょっと逸れるけどYoutubeMusicのこのリスト、Youtube公式が頻繁に更新していること自体にちょっと驚いた。ユーザーの流行に場所を貸してるだけ、みたいなテイじゃないんだね。そりゃそうか。


もう一生テレビから一発屋を輩出し続ける番組って出ないのかもしれない。野々村議員・小保方晴子あたりからもうへんなニュースの方が一発屋性が強かった。

SNS好きがテレビ見てなさすぎるだけか。おもしろ荘とか有吉の壁とかで出てはいるはず。
偶然である方がボケとして強いから、世間の声が共有できる今はネタがめちゃめちゃ強くないと無理なのかも。初期の狩野英孝や今のなかやまきんに君や度々バズるハンバーグ師匠、今見てもやっぱなんだかんだネタ強いもんな。

R1グランプリ、なんかメンバー強そうで楽しみ。逆にR1からあんまり一発屋が排出されないのは不思議。

・「古着屋」

「古着屋適性」ってある気がする。おばさん世代の方が傾向としては強いが、若者でも古着好きな人ってかなり熱中を感じる。
おしゃれがそれなりに好きで、衛生面など深いことは気にせず、のめり込む素質。そう思うのも、母親が古着好きだからか。

ターゲット自体は広めだけど層は狭く、一部の人のおかげで複数の店舗が経営できる形。ちょっとカードショップ的だな~と思う。
というか中古ショップ文化全体がそう。中古における掘り出し物感って、そのもの自体が好きだとやっぱ刺さる。「自分にはこの価値がわかるし、それを見つけてしまった」の優越感って他ではあまり味わえない。

僕も仮に中古ボードゲーム屋が市内に3店舗でもあろうものなら巡るもんな。実際に唯一やってた1店舗が最近潰れた。こうなるとユーザー間の催しを待つのみ。

中古の宝探し感って、ちょっと釣りや狩りにも近いのかもしれない。
魚や獣じゃなくて、好きを対象にした狩り。

・「数字」

初めて数字に感動したの、「数字は全世界の共通言語だ」みたいな言い方かもしれない。見たのは確かベネッセの教材の何かしらだと思うんだけど、言われてみるまで気づかなかった。
発音は違うけど、デジタル時計ってどこでも確かに共通している。

ただ脳が国語寄りなので、そのあとすぐに「でも発音違うしなぁ」と思ってしょげた。
今思うと言いたいことを履き違えている。本当は何が伝えたかったのか?と言われるとそれも説明しにくい。
「どこも考え方は同じだし、覚えとくと便利だよ~」の取っ掛かりかな。
でも数字だけじゃ完璧なコミュニケーションはできないよ。言語でもできないか。

当時は一瞬「8月31日は野菜の日」みたいなことができるとよぎったのだ。逆に象形文字的なことは容易で、「11月11日 Pocky day!!!」みたいな売り方はできるだろう。そうなるともうイラストでいいね。雰囲気を伝えるだけなら音楽でも可。

特定の方法を用いて意味を伝える。音楽・イラストと同じ並びと考えると芸術って言い方も違和感ない。
ただ美しさが伝わりづらいのかもね。「数字・数学の美しさ」みたいなのをぼやーっと想像するものの、僕も正直わからない。

数字に執着する人って人生を捧げるほどそれをするイメージがある。
芸術と同じで感性的なもんじゃないかな?
芸術だとしたら、押し付けてほしくないけどな。
今ちゃっかり根拠ふわふわの三段論法みたいなことしたかも。
嫌なことあったん?

・「泥除け」

なんだろうと思ったら自転車の後輪でカバーみたいになってるプラスチック部分だった。アウトドアな人やトラック運転手ならわかるのかな。

試運転してから必要性に気づくことってあるし、泥除けもそうかも。
最初に自転車を発明したとして、泥除けって二次災害的な部分が大きい。カスタマイズのようなものだ。
「これやってから気づいたんですけど」に対する修正って大事よね。ただシンプルさを失うことにもなるから、闇雲に修正を続ければいいって話でもない。
加筆修正にも同じところがある。泥除けは泥が発生しなければ本来要らないし、補足説明は疑問が浮かばない文には必要ない。

その点「鍋の蓋を作ったけど通気孔がないとヤバいことに気づいた」みたいなのって、修正と機能美の備え方が最小単位でめっちゃオシャレじゃないですか?鍋の蓋ってああ見えてオシャレっすよね。ねぇ?
「闇雲」って単語もオシャレっすよね。ねぇ?

もういいっすか?

・「晴れ」

晴れって晴れの立ち位置に胡坐かいてそうじゃないですか?
思ったことない?アレ?逆張りすぎる?

「良すぎると素直に好きになれない」みたいなことがたま~にあって、晴れもそうかもしれない。それでも毎日晴れと毎日雨だったら絶対毎日晴れの方がいい。ただ本当に毎日晴れだと困っちゃうね。

こう、晴れにも自分が絶対的ないいものじゃないって自覚を持ってほしい。ハレの日だとかあっぱれだとか心が晴れただとか、ポジティブな印象がちょっと多すぎるんじゃないか。いち天気がしゃしゃりすぎ。あんま調子乗んなよ。

あ~!
巨大な大衆の支持に、ありもしない鬱憤をぶつけたら心が晴れた~!


おわり。

こなまるでした。

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