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運は遺伝するを読み丸【読書感想文】

小難しい本も読むようになっちゃったね。新書だってさ~。
痛ましいこと書くかもだから注意かも~!
読書感想文っていうか、自分語りかも~!

本屋で引き寄せられて、どうにも買うか迷ったが買ってしまった。
ていうか感想もできればあんま書きたくないよ~!!!!
でも吐き出さないと体調悪くなっちゃうよ~!!!!
個人の感想です!!!ほんの感想!!!(臆病)


僕の家族の色々と


家族全員、若干の生きづらさを抱えて生きている。
このせいか「そもそも生きづらくない人はいないが、サポートされるかは程度による」というのが僕の中でも定説だ。

芸術文化に興味がない人が、5人家族の1人たりともいないのだ。

今はネットの文化普及からして当たり前かもしれないが、狭い繋がりのクラスメイトよりも兄妹皆ずっと文化への目覚めがはやかった。

それでいて、それぞれ今になっても打ち込めるものへの固執は中々異常に見える。

父親はガジェットが好きな双極性障害だ。いわゆる躁うつ病。自身で公表済みだし、今は愛を持って接することができる。
なかなかどうしようもなく、良いユーモアの持ち主だ。

その親族はシングルマザー、かつ一卵性双生児の似すぎている双子が居た。大腸がんで亡くなった。そのあとちゃっかりがん保険に入り、大腸がんを早期発見と摘出した超幸運の持ち主。ちょっとしたサンプルとして二人の顔が浮かんだ。
何より、心理学に触れた博愛精神のある人間を生涯の伴侶にしている。その痛みが計り知れないぶん、手放しに超幸運とも言えないだろうけど。元中学英語教師だ。

母親は、診断はないであろう発達障害気味の絶大愛情人間だ。
明らかに片づけができていない。それでも精神的かつ金銭的な火の車を回し続けたのは、この人の覚悟の成せる業だった。今もそう。
心理学を学ぼうとした文学少女で、本の虫と言っていい。
未だにこの人の過去を深く掘ることは難しそうだし、どれだけの本を読んだのかもわからない。本屋に来ると全部買おうとする。本屋富豪買いすな。

その親族には愛されていると思う。1980年代に、親から心理学の道を閉ざされた痛みは計り知れないが。実際にこの人が父親に惚れていなかったらと思うと、ちょっと怖いくらいだ。天才的な直感と直観を持っていると思う。今も現役の中学国語教師だ。

兄は2歳でパソコンを触っていたという。自閉症だ。
僕も小1でニコニコ動画にコメントくらいはしていた。多動だ。
妹は小1でキータイピングをマスターしていた。比較的学歴は良いのかもしれない。杜撰だ。

親の影響で、異常に子供部屋にサブカルチャーグッズが転がっていたのだ。生まれた時からポケモンが居た。ゲーム機があった。

カートゥーンネットワークとキッズステーションとアニマックスと、音楽と絵本と積み木やブロックの玩具と、ボードゲームとパソコンとぬいぐるみとソファーと床暖房と、猫がいた。
世代が替わりつつも、家族から猫が欠けたことがない。

そのうちカードゲームもコロコロコミックも与えられた。iPodに知らない曲も入っていた。今考えると英才教育だ。「遊び」特化だ。
気づいたら兄の手によってローマ字入力ポスターが貼られていた。今考えるとネットギフテッドの実証実験みたいだね。

妄想が元のごっこ遊びだって勿論沢山した。
中学教師2人、裕福じゃないとは考えにくい。
そもそも床暖房がついていた他人の家を知らない。
両親に話したら「今更気づいた?」と笑ってくれることだと思う。中学生くらいで気づいた。

その裕福さで組んだローンの持ち家を売り払いつつも、賃貸で引っ越しを繰り返して、今こうして僕が無職でも一時的に許されているのだ。
なかなか不思議な話だ。

別に「激動の人間たち」とは思わない。他人を見るに、こんなの序の口だろう。とはいえ「変」とは言われてしまう。「変」の親も大抵「変」なのだ。

僕は小学5年生で開設したTwitterアカウントを、ID名を変えながら今も大事に使っている。Twitterは多動にぴったりだった。申し訳ないけど。

アカウントを残し続けたのも、そういう記録をなぜか直感で消したくなかっただけなのかもしれない。
未開拓の分野においては、なにより論より証拠なのだ。

僕は今でも周期的に暗い気持ちになるが、かなり楽観的に受け入れている。痛い時にしか沁みない音楽や文章がある。これも味だし薬やね。

妹は「なんでお父さんと結婚したん」なんてポンと言うこともあったらしい。そうだねぇ。

そういや、家族アルバムが一枚もない年がある。
逆算すると、父親が措置入院した時だった。重い話のつもりはない。
確かにホラーな脚本だったら「抜け落ちた過去……!」みたいになるし家族全員2012年の記憶はあんまないけど、別に忘れるのが適応なら忘れていいのでは。薬で記憶が欠けることもあるし。事実死んでないし。

自分らはたまたま実験体みたいな親と育ちだな~、と思っている。
不思議と察しがいい。というか、とにかく察しだけが良すぎた。
兄と妹はイラストや踊りが好きそうだけど、僕はたまたま打鍵が好きだったっぽい。最近気づいた。

どうやら母にはタイプライターを覚えた過去があるらしい。
ちょっと、色々重なり重なって偶然とは思えないのだ。同じ生きやすさに定住しようとするってことが。種族値も努力値もあるんかい。

こういう考えを放置してもいい。別にネットでも10年くらい言ってなかったし。
最近は、別にタブー視して困るのって社会だけどな……みたいな気持ちにさせられることが多い。人体における軽めのバグで、ちょっとした変異なのだ。覚えてた方が対策打てて得じゃない?みたいな感じ。

後天的に起こることもきっとある。高負荷のストレスはあらゆる病気の発生源になることを、ネットで自己診断する人たちはよく知っているだろうけど。

「ジョーカー」を見ただけでエグ!と言ったり炎上をバカッターと言って嘲笑したり、定期的に地獄を繰り返す。
いやいや、元からそうだろ!知ってたって!見てないだけで地獄だって!

そのうちに、茶番だな~笑としか思えなくなる。
地獄すっげぇ楽し~笑笑と思う以外に、生きる方法はそんなに見つからないのだ。
泣き笑いするしか楽しくない!いちいち心を傷めてらんない!いい曲聴いて踊んの!

「心壊れちゃったの!?」と言われることもたまにあったけど、どちらかと言うと壊れる前提の心の設計だと思う。心って言うか、脳。

それでいて、別に楽しくない日々とは言えないのだ。楽しい時は人の5倍くらい楽しい気がする。だからマズい、というのはその通りなんだけど……。

自分が何にこんなに怯えてるのか知りたかった。本も読めるようになったっぽいし、なんか怯えてる人が目に映るし。
あと「地獄でなぜ悪い」って曲のこと好きだし。

この本もタイトルに惹かれてパラりと読んだ。
ちょっと他人事とは思えなかった。

言っていることの怪しさは百も承知だ。ネットファクトチェック歴15年だけど、それでも真偽が分かりづらい。

なにかをつついちゃいけないものをつついている気がしなくもないけど、そんな遊びが許されないような倫理観の教育は受けてなかった。
なんかパラッと目次見ただけでもちょっと……怖いねぇ……。

最近の愛着障害・愛着形成ってネットの論じ方にも少しだけ疑問があったのだ。
親からの愛が少なくない気がするのに、他人への愛が分からない気がする。

1回蹴られたのと、怯えてはいたけど……。
愛されてたよね……?

他人はどうあれ、僕には適用できなくないか?感受性を鈍らせているだけではないか?

恵まれているのとは全く別枠で、不意の嘲笑が他人よりずっと痛かったのだ。

種として劣っている気がするとそうなるだけかもしれない。
教育法で若干の作用はあるかもしれないけど、他人への愛情と感受性は関連付けて考えられそうな気が……。

あと「変」の声や、関係のない罵詈雑言が、叫び声や叱り声がなぜか人よりずっと痛い。
それでやっちゃいけないと言われたことは、ずっとずっと誰より我慢した。
グレーが故に我慢ができる。
そのうち正気を蝕んだ。

怒る人は苦手だったし、兄にも父にも怒るのは無駄だし。他人にも無駄だし。自分がやられちゃ嫌なことをやらなくなったら、そのうち世界からやることがなくなっていた。

学校教育上の神経質は最悪命を落とすから、動かない方がいいのは当然の判断とも言える。防衛反応じゃないかな?って。
そういう(強めの虐待をされている)人も当然いるだろうけど、記憶が曖昧だし……。父は自分で世界を閉ざせる人だったし……。

喜びの感受性と、痛みの感受性は同じではないか。

芸術のセンスは「感じすぎる」ことを前提に研ぎ澄まされる。
文豪が自死を選ぶこともあるし、音楽家がモラルを思いっきり犯すこともあるし、俳優や芸人と呼ばれる人が、フラリと罵詈雑言に堪えられずに世を去ったこともあった。

沢山喜べるからそれを伝えたいが、ただ刺されるのはずっと痛い。
ただそれだけの人達だったんじゃないか。


最近、無職になった。ストレスフリーだ。

トラウマ覚悟で記憶を思い出していくと、そこそこ、いやきっと他人の何倍も愛情と覚悟と希望を持って育てられている。

ホームビデオや写真だってある。自分で育児をする覚悟を失くすほどの、デカすぎる愛。
ちょっと怖くなっちゃうくらいの。

インターネットで凄惨とされるコンテンツやブラクラは、ずっと前から脳にある。どんな痛みも、免疫自体は他人よりある気がしている。
いやいま急にnoteから爆音なったらそりゃ怖いけどさ。
怖さそのものを経験してるかどうかで言ったら、ネット歴15年で知ってきている方だ。

それらを心的外傷と呼ぶこともできるけど、どう片付けるかは知らない。もう今の子供はそれを避けられない時代な気もするし。

何かしらのナイーブさが遺伝している気もする。
愛された証拠のある自分が親の教育的責任なんかでなすりつけて終わりでいいのか?
少なくとも僕は納得できない。
たまには前を向きたいのに。

産まれた以上は自分一人の問題、そんな気がしてこの本を読んだ。
本に吸われるみたいに一日で。

読後

うーん。

身長や体重やスポーツみたいに、脳の何かが遺伝しただけ。脳も内臓かつ心って理解は、今でもあまり浸透していない。
人間が生物かつ雄雌だってことも、あまり浸透していない。

そう言ってしまった方が説明がつくんじゃないか?と元々自分のなかで感じていたことが言われていた。モラルに阻まれて言えないことって、なんかめちゃめちゃ多いみたいだ。

全部一旦頷いてしまう。ちょっと同意しすぎて良くないな。こわ~。

全部が全部納得したくない、残酷なことばかり書いてある。

でも、実感の伴うあるある本みたいになってしまう。それくらい当事者として腑に落ちる内容だった。だから、全部を信用したくない、もっとサンプルを集めろ!みたいな気持ちもある。そうしてこれを書いている。

僕自身、面白いものの方が好きだ。面白いものも作りたくなってきた。
ここ最近、芸術家たちのどうしようもない傷心を描かれたものがどれも何故か痛いほどわかってきたのだ。

アーティストは矯正されることに対する、反抗しがたい激痛を歌っている。音楽家なんて全員ナイーブで、自意識が歪んでいる。
きっと痛みがそれでしか和らがないから、自意識は歪むしかなかったのだ。

「そうねぇ…………」と、一度感じたことのあるどうしようもない感傷に浸ることができる。
「浸ることができる」と書くのは、そうやって痛みを甘美に感じることでしか地獄を上手く生きられないのだ。

その人たちにとって「言葉のナイフ」というのは比喩じゃない。
実体がある概念なのだ。
心臓ごと突き刺す。じゃあ一旦、種として死んどきましょうか!^^って言われるような痛み。それを合法的な劇薬と医学と娯楽で誤魔化している。そのサポートを受けられない人もいる。

傷つかずにいられない側が一種の「性癖・嗜好」だとしたら、傷つけずにいられない側もまた一種の「性癖・嗜好」である。

声を上げる時には、こういう消極的なアプローチであることが多い。文とか詩とか。
人を殴りたくないのに、自覚のないまま殴られる。
そして殴りたくない人でさえ、無意識で殴ってくることがある。ナイーブなだけで、そういうどうしようもない割り切りが必要になる。
脳の疾患にはそういうところがきっとある。

理想の世界しか見えていないからかもしれない。
ネットの普及が先で、そのスピードも爆発的だった。

痛みは不可逆だ。同じ痛みは伝わらない。
手首を切ることによって相手に初めて気づかれることもあるが、大体からしてただ存在するだけの方が虚ろで痛い時だってあるのだ。それをわかろうとすると蝕まれることもある。

僕の家族同士の痛みさえ、完全に100%理解する/されることはできない。兄と僕の痛みの質がこんなに違うのかと、1日泣き疲れたこともある。


遺伝と環境の相互関係も描かれていた。確かに遺伝と環境、どっちかに振り切ってしか左右されません!ってことはなかなかない。

「嗜好」が遺伝することによって環境もそれに染まっていくことがある、とある。
確かにスポーツだってできたはずだ。兄と僕でサッカーを習っていた時もあったのに、続きやしなかった。
そういや父親が弾けたギターを続けることは、兄妹の誰にもできなかった。
かなり運ゲーだ。

「親ガチャ」が認めがたいことも書いていた。確かに精神が不安定になりやすいもの同士の相互作用はあるし、悪循環は容易に想像がつく。
いや、想像がつかない人もいる。僕だって想像がつかなかった。親のせいでしかないと思う人が大勢いるのは当然の拒否反応だ。

とはいえ「丸のタネ」と「しわのタネ」の有名な実験とさして変わらない。
ある程度は変異ができてしまうし、変異の要因はわからない。生物学上のバグやエラーは必ず発生するし、それは種が存続するためだけに必然的かつ恣意的にそうなってしまったものだ。

「親ガチャ」というよりは「ピックアップガチャ」だろうか。全部を環境のせいにするには、まだ希望がある場合もある。乙武洋匡だってヘレンケラーだって文を書いている。
ただほとんどの場合、理想とは程遠い。

身の回りもたまたま生きづらい人が集まる形になりやすい。
ネット上で気づいてほしいと手を振る人間も増えたけど、気づいてくれるのは既に痛みのわかる人間であることが多い。

あまりにも同じ痛みであることの実証ができないし、「今のところ運ゲーっすね笑」と思うしかない。痛みも知覚のシグナルだ。人による。分かり合おうとするには、あまりにも複合的すぎる。

自分の痛みが他の誰にもないって孤独感は、きっと誰しもが持っている埋まらない痛みだ。

一卵性双生児の父親でさえ、兄が先に死んだ時に悲しめなかったそうだ。「これじゃ母親の介護を世話するの俺じゃんか……」と落ち込んだらしい。
進化の過程で痛覚が欠けることも恐らくある。痛覚が欠ければモラルも欠ける。

殴る側には、抑えたかった殴りを抑えられない人もいる。
殴っちゃいけない理由がわからない人もいる。
わかりあえないことがわからない人もいる。

許そうぜ!って言って許せない人の方が多い。最悪の場合自分や家族が死ぬからねぇ……。
交通事故みたいなものなんだけど、そういう割り切りにもできないらしい。実際自分もそういう割り切りでは捉え難い。
でも死ぬときゃ死ぬしさ。

「性善説」なんかじゃなくて、性ありのまま説、性”素”説みたいな感じだ。
善悪を決めるのは、こっち側の道徳や倫理や司法。でも命が尊いのはしょうがなくその通りだし、どこかに愛を感じちゃうし。

命尊くない!の価値観の人は種の存続ルールに沿ってか罰せられちゃうからか、あまり見ない。そういうバグり方もある。
今で言う「グリッチ(有用グレーのバグ)」として皆に愛されることもある。


インターネットによって、より分かり合えない人同士が見えやすくなった。諦観と博愛をどうか一緒に持てないか、なんて思っても博愛の意味が分からないヘキには無駄なのだ。

理想追及をしてもいいんだろうけど、結局未来に向けて「今いる人と楽しく過ごしている人がいて、昔からこうだった」ってサンプルを残して過ごすのが一番楽だな、なんて当たり障りのないことを思っている。

知らせてみることと、その日を暮らすことが僕の考え方には合うんだけど……こんなに書いてもしょうがないか。

無視できなくなったタブーたちは声を上げ始めている。
一緒に加担しよ~!ってつもりはない。痛みが同じじゃないから、強制はどんな形であれ誰にもできないのだ。僕はこれが楽しいからやってる。

そのうち似た人が救われる気もする。勿論悪化するリスクもあるけど、そこまでの責任を国や他人が取れるなら、こんな痛みを一人で抱えていない。

無責任同士で声をあげてるから、世界が続いているっぽい。う~ん。
日々が楽しければいっか!

何かへの不安を増やしたいから声を上げるんじゃなくて、いつかのどこかの誰かに届けるために。
紫外線みたいな見えづらいライトを、そのSOSをずっと先の宇宙や未来に飛ばすような気持ちなのだ。気づかないなら気づかないでいい。


この本を読んで自分の生き方が楽になることはあっても、社会を変えることができる!なんて大逸れたことは思えない気がする。

ただこの言説が「納得」「腑に落ち」の選択肢にあることで生きやすくなる人って、別にゼロではないと思う。

僕はこっちの方が前を向けるから好きだ。残酷な方が甘えないで済む。
自分事として考えないと、特にグレーの人間は前を向けない。

知ってもらうことはできても、他人にとって何が痛いかも一致しない。

僕が簡単に言う「死ぬか~!」より、他人が簡単に言う「カスがよ」の方が傷が大きく重く感じるのだ。他人の本来の傷つき方がわかるはずがない。

死ぬか~は先に種を途絶えさせる!って主観で理由をつけてしまうが、カスがよ、はただ人格の否定でしかないように思えてしまう。
本人が、ただの一度もそういう未遂をしなくても、本当に伝わらないくらい痛いのだ。

だってこんな理由も、自分の価値観でしか語ってないもの。アホの坂田に「バカ」って言っちゃいけない理由、あんまよくわかんなかったし。怒りも悲しみも、広義で痛みのひとつだろう。

よくわからない、同じ痛み方をする者同士ですら完璧な一致はするわけがない。
痛みは、感情はどうしても一致しない。
酷く虐待され続けている人の気持ちを、僕はわかってやれない。今はその覚えがないからだ。これはどうにも残酷なことだ。

なかなか再現も難しい。極論、身体一個分横にピッタリくっついてズレたまま移動するって仮定の一卵性双生児でさえ、同じ人には絶対にならないと思うのだ。それで石に躓いたら別のルートだし、座標が1mmズレたパラレルワールドは別のことが起きそうだ。

結構みんなどうしようもないし、普通なんてどこにもないのだ。

やられちゃ嫌なことをやっても大丈夫。
それまで怯えていた、”良識の範囲内”なら何してもいい。インターネットが流行りきったなら、そう考えないとダメな気がする。

それが仮に学校ならあってないような独自の法律があることが多いけど、社会はきっと自己理解がある方が適応がはやい。みんな適度に無責任だ。自動車移動もね。
「車の運転の上手さは人間生活の上手さだ!」って誰かから聞いて、すごく納得した覚えがある。傷つきに責任を感じてない人ほど車の運転が上手い。

受け入れなさい!って言いたいところだけど、当事者がいたら一旦とりあえず大声出して逃げて欲しいかも。

全力で休んだら、いつかは楽しく生きれるはず。
僕もまだ不確定だけど、今は人生最高に楽しいし。
確定してる楽しさも悲しみもない!
要するに運ゲー!

で、きっとなんだかんだ人類は生き残るし(ヒトの生命力すごすぎる)。

そういう卵で産まれてるなら割り切るか〜!

向いてる職から選べば、それなりに楽しく生きることはできると思います!
らぶ!うそ!

それなりに楽しく生きることすらできない人もいる!無視すんなね!でも解決ムズすぎ!

今が楽しいので、そのうち解決したらいいですね!
どこかで役に立ったらいいな!
みたいな気持ちです!

責任取れね~!


全部は信じてないけど、納得感はあった。

自分の中では「自分がやりやすいことやりながら趣味大事にできたらいいや〜!」がより強固になった1冊だった。

あとはまぁ~……紙でもネットでも「本や言葉」にあたるものが燃えて消えたら、ちょっとヤバいのかも。

あと僕もこの「すぐ曲貼りたくなるフェチ」やめた方がいいか。

でもやめない!!!!!

両親を見るに、幸運ではあるんだろうなぁ。

こなまるでした。

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