Bungie社のMythIIの記憶。日本人最強チーム(出た)Fcommとそこから見たコミュニティの覚書。

少しゲームが好きな者なら、ゲームが単なる気晴らしや退屈しのぎ以上のものだと知っているだろう。そして、ゲームが全てだって人がいることだって不思議じゃない、それはかつての私の事で、その一つの思い出話、人生の多感で、貴重な若い活力のある時間を注ぎ込んでしまった老人の思い出話。まだ何とかおぼえているうちにメモをしておきたい。もしなんだったら当時のやり取りをした人と少しくらいは久しぶりに話せたら面白い・・(ないか)

* * *

東京BBSのBungie/Marathon会議室への参加から同じBungie社の新作Mythへ傾倒していく話は前回書いた通りだ。私は「ゲーム」に3度大きくハマり、一度目はファミコン、2度目は格闘ゲーム、3度目がBungie社のMythだった。

それ以外でも一般平均よりかは異常といえるほどハマっていたのだが、その私をもってしても、その3度の経験は頭脳の全て、財産の全て、時間と生活の全てを注ぎ込んだものだった。

ファミコンに関しては子供だったから、少し毛色は違うのかもしれないが、格闘ゲームは全てを注ぎ込んでいた。とりわけカプコンのストリートファイター2からZERO2までの期間だ。だが、今回の話はBungie社のMythの話だ。同社は基本Macintosh専用ゲームをリリースし続け、FPSの名作Marathonシリーズで確固たる評価を経て、リアルタイムストラテジーゲームのMythを発表する。MythIIを送り出した後に、マイクロソフトへ買収されXbox専用タイトルのHaloを作りそのシーンを支えた最大の立役者だと私は思っている。

今から大体23年前、Myth-闇の破壊神というオンライン対戦ゲームに、のめり込んだ。そのゲームは発売して程なく日本語版が発売されたが、オンラインロビーでは日本語は使えず*1ローマ字でチャットをするという、同時オンライン人口が確か・・500人程度のものだった。ただ、当時競合するオンラインゲームは一部のギークによるDOOMやディアブロくらいのもので、記憶が正しければその後、エバークエスト、ウルティマオンライン、スタークラフトなどが続いたはずだ。それらのゲームがリリースされる度にMythは過疎り、少しづつ復帰組が戻ってくるというのが恒例だった。

*1 オプション&コマンドキーを押しながらAを2回タイプすると「血」って出た気がする。そういったなんかコード入力的に入れると対応した文字が出たがまぁ・・実用は無理だった。なかにはこのキーを入れるとこの文字が出ると使いこなし、ちょっとした日本語チャットを実現している猛者がいたが全ての文字がでるわけではないので片言の外人のようなぶっきらぼうな日本語表記になりちょっとイラっとさせたのが懐かしい。「おう おつかレな」 みたいな。

大雑把にいえばインターネットの黎明期でもあり、Mythで知り合った人たちは、IRQ、ICQ、ファイル交換兼チャットが出来るホットライン、無料のホームページサービスや掲示板サービス、メーリングリストなど時流に沿って取り入れられゲーム外でも交流が続いた初期のオンラインゲーム体験だった。MythIIの頃になるとラグナロクオンラインやウルティマ、アンリアルと様変わりし、オンライン人口は劇的に増えたが、初代Mythの頃はまさに選ばれし者というか、はみ出しもの達の集まりと言った様相で、勿論みなその独特の雰囲気に中毒者を量産していった。つまり・・というかその頃のオンラインユーザーは全員がホームページを持っていてある程度のPCスキルもあるような連中が多かったような気がする。まだアナログモデム1.44k〜2.88kのような時代で「ISDNユーザーは早い!」みたいな時代だ。電話代は勿論従量制だったかテレホーダイが丁度登場したかのような頃。時々現れるT1回線と言っていたか・・専用インターネット回線を持つ者が開くゲームホストは異常に早く快適。みんなから「Host plz!!」と神に雨を乞うかのような存在だった。(Pingが二桁ってあの頃まず見なかったからね)

そのMythのなかで私はKENという名前だった。東京BBSで私が命名し「チームつくりましょうよ」と言ってまで作った「KUMA」というチームが最初はあったのだが、東京BBSチームは足並みが揃わず私よりもMythに熱意が薄かったように思う。私は毎晩オンラインだったし、モチベーションが高く、活発な他のユーザーを見る度に「うちのチームなかなかあらわれないな」とネームプレートの後ろにつけたKUMAタグが虚しくなっていた。他のチームは活発にオーダーマッチ(チーム戦)を繰り広げており、同志がログインしてこない私は裏切ってONK(オーダーオブザナイトキラー)というチームがどうやらMyth最古のチームらしく、またよく見かけるという事でそのチームに入らせてもらった。当時のボスは二代目だったのか、初代だったのかうろ覚えだが北海道のDuopod氏だった。彼とは一度だけあったことがあり確かSEかプログラマだったはずだ。その時のMyth界のS級プレイヤーといえば、Face氏、Kandata氏、Prince氏、PforKen氏などが思い出せる。

Kandata氏とは歳も近く、家も隣県同士でその後3年ほどの間に一緒に遠出したりするなかになるが、他のゲームをやる機会が増えたこと、また彼がロシア語を勉強することに忙しく、本当にロシアに行くとか何かで疎遠になった。それに彼はもう少し大人びた人たちとのほうが仲が良かったと思う。それでも彼とは私が免許を撮った翌日に電車で三重県のN市のNattui氏の家へみんなで行くという強行軍をしたり(その後大人数でもう一度行った)和歌山のARMS氏の家へ5人か6人で運転していったりオフ会をしたことがある。特に1度目は思い出深く、帰りの電車代が無いという凄い状態の私に寝台列車をおごってくれたのがKandata氏だ。彼との話は長くなるのでここまでだが、知的なやつ(あえて、親しみをこえて やつ と書かせてもらいたい)だった。

思い出話は無限にあるので、五月雨にこの文のなかでも随所に思い出したところで書くが、思い出深いのは、Pincho氏が私の新小岩のアパートに泊まりにきたこと。Nattui氏が三重から東京にきたときに、フラカッソというファミレスでビールを飲んで話したこと、大学浪人のTetuo氏が受験前夜にホテルに心細いから急に遊びにきてくれといわれ遊びにいったこと。(受かったのかは覚えていない)様々なチームにイキリ暴言で迷惑をかけたこと。そして、これから書くONKでの在籍時代から、独立し「F-Communications」の立ち上げ、MythII引退後、私とは義兄弟とまで言われたSt.Michel(St.Mikael)ことMikとその兄との話。沖縄のMoy、豪雪の関ヶ原インター付近での車の立ち往生のときに押してやるといっていた愛知県のKuri先生。バイクのDobu君、mo9、Jazzシンガーですという話が出たTANO@桜餅さん、広島のK.Takeさんには3dfxボードをもらったり。私や私のチームは間違いなく一番ディープな時間のMythIIの中心にいたし、最強だったので(出た)もう全員に対し何かがある。

また思い出したら五月雨で書く。

大分それたがONKに入りはしたものの、チーム戦になれば私はソラル2体をあたえられて斥候役。といった感じでまったく戦力外だった。とにかく下手だった。Myth1の頃は全く成長がなかったように思う。それでもMythIIが発売されるころ流石にプレイ時間が尋常ではなくなり、本当に上手い人間はとっくに他のゲームへ消え、残った私が多少目立つプレイヤーとなっていた。

Myth1の末期だったろうか・・、女性問題で消えたwむねさん(Heaven'sWill)とスト2Xを私の家の筐体で対戦したり、Q.Pというチームがかなり大きくなってきたり、バードウォッチャー君のお姉さんの名前は・・確かナースのYoukoさんだった、が現れ「お、女がいるぞw」みたいな事があった。この三人に関してはちょっとこのざっくばらんだけが売りの私でも伏せておきたい事もあるので、何かの機会があれば書くかもしれないがとにかく色々あった。(あ、Youkoさん、職場に突然来たときご飯おごってくれてあのときはありがとうございました 超貧乏だったので嬉しかった)確か彼女はMythIIのころ結婚し、家を建てていたくらいまではオンラインにいたので覚えている。

さてONKは古株が多いが流石に抜けたり、消えた人が増えてきた。ただしボスのDuopod氏は何か連絡すればすぐに返事をくれたり、声をかけてくれたり非常にマメで気さくな人だった。私はわたしで独自の仲良しな人を形成しつつあり、特にSt.Michel・・ミックとMoy,Kuri先生,ミックの兄Galleon氏

このあたりのメンツと新しいチームを作りたくなり、当時私の大好きだったフランスのクラブ・ミュージックのレーベル「F-Communications」と同名のチームを結成。長いのでFcommエフコミュ、と名乗った。ここからがMythIIの歴史と私のMyth最盛期の時間へとつながっていく。

Fcommの特徴といえばチーム戦が強い。そしてそのチーム戦に作戦が無い。あるとすればそれは音楽のようなもんだ。みたいなところだ。(今で言う中二病っていうんですか?)とはいえそれは私だけでメンバーはそこまで電波な人ではなかったと思うが、ミックと私で立ち上げ、その後ガルさん(Mikの実兄Galleon氏)に移設してもらい、ONKのボスDuopod氏に音楽でいうとサブレーベルみたいなもんでONKの傘下ってことで立ち上げていいっすか?みたいな感じで、さっぱりとしたDuoボスの許可を経て独立という流れだった。

Duoボスにはチームの掲示板やホームページのサーバを建ててもらったり、掲示板が荒らされたとき*2には対処してもらったりwもう父親のように見守ってもらいました。感謝。

*2

どこかの掲示板で、うーん、TFM(皆殺し一家)のPrince氏が攻撃されているのをバードウォッチャー氏が止めに入り、止まらず、当時のMyth界の言うこと効かない暴れん坊みたいな?(困ったちゃんという意味ですね)私に横槍いれてくれー援護射撃はよ!みたいな要請で私が掲示板の中傷合戦みたいなのを茶化す役目で参加、そして私のチームの掲示板も荒らされる→Duoボスがプログラムで自動阻止を組む。って事です、たしか。

で、チームには作戦が無い、しかし個人の力量だけでは絶対無く結局素晴らしいチームワークで連戦無敗。みたいなチームだった。これは本当。そして私はVenisというマップは日本一ソロでも強かった(出た)チャットロビーで誰か対戦しませんか的な流れの「べにたんBC60mins」は、ベニスというマップでボディカウント(どちらかが全滅すれば勝ちルール)時間制限は60分(ほぼ最大設定、無制限勝負の意味と同義)って事だった。

しかしこれが、Kandata氏との別れの決定打となった。本人は認めないと思うが・・まあ昔話なので・・聞いて下さい。当時のMyth界では最強プレイヤーは?と話題ではKandata氏の声が一番多かった。特に彼のFFA(フリーフォーオール、5人で一人づつやりたいマップ、ルールを言い5試合の戦績を競うような、一番ソロプレイの実力が試されるような流行っていた対戦形式)能力はずば抜けていて確かに強かった。それもMyth初期のころからそうではあったのだが、MythIIは「もう俺に勝てる人、いないしな・・」みたいな事も少しこぼしていたし、彼お手製のTripodのMyth攻略サイトでは「今でもMyth最強はゆずれませんがね・・hehe...」みたいな言葉も輝いていた。その彼と久しぶりに対戦する機会があり、それもギャラリーにKtakeさんがついての言わば公式決戦が、ある夜勃発したのだ。腕に自信のあるKandata氏は「KENちゃんの好きなのでいいよ」と自信ありげ。私は勿論「べにたんBC60分」そして私は2戦完勝したのだ。しかも奇抜な戦法でもなく、お互い堅実なBM(弓兵)を軸にしたウォーロック、ドワーフを残した状態で息の詰まるようなバチバチの差し合いだった。しかしKandata氏の腕を私のプレイ時間がはるかに凌駕しており同時ユニット操作能力で私が上回ったのだ。私の弓は徐々に彼の兵力を削いでいきこのままでは時間の問題。となったその瞬間、彼のパス奇襲(MythIIのちょっとした玄人技で麻痺や爆発を持つ破片を持った速攻兵で攻撃する戦法)が私の軍背後から襲いかかり、その瞬間彼の前衛の火力部隊が一気にラインを押しあげてきた、しかしパス奇襲も前面火力も私の軍の立て直しが早く膨大なマウス操作でユニットに個別指示を与え、同時に潰したのだった。勝負は完全に決したと思った瞬間の彼の「lag!!!!!!!」という3文字が今でも全てだと思う。そしてONK時代の斥候2ユニットしか任せられなかった私と、ONKの最前線を担ったKandata氏が完全に抜かれた瞬間だった。嬉しかったと同時に彼はもう来なくなるな・・と即座に感じ悲しくなったのも同時だった。当然ラグ!の叫びの通り、それが敗因なのだから即再戦とその場で話題もあがろうものだ。つまり、ホストをKandata氏がやればいいのである。しかし心ではお互いわかっていたのだ。勝負は決したと。K.Takeさんも無言だった。重い空気だった。彼の事はどこか自分には無いものがあり、同じ歳であり、長い時間をかけてお互い会う関係になり、数度長旅を友にし、帰りの旅費までもらった恩人でもあり、彼の行き詰まった生活を学校生活に向かわせた一言を言ったのも私だった。*3

だが、彼は他の大人ゲーマークラスタとも中が良かったし、本当はけんちゃんがやっと俺に勝てたしまぁええやろ。くらいだったのかもしれないし、勿論私にも彼に敵意はない。ただこれでネットで合わなくなるな・・ICQで見かけても徐々に声をかけなくなる、それはMythIIのBungieネットにオンラインでなくなればそうなるのはわかっていた。それがその瞬間の重さに凝縮されていたのを瞬時にその場の3人が悟ったのだった。

そうそう、その後「べにたんさいきょう!」とか私が騒いでいたころ、TANOさんが「じゃあ私がたおす〜キャキャ」、という事があり(すみません、TANOさんはおもしろ楽しいのはいいんですが、ゲームは下手っぴというステータスだったと思います)対戦したところ、60分グール(足が速いユニット)でマップ中逃げ回るという珍試合があったことも覚えています。
*3 はじめて二人で東京駅か何かで待ち合わせして、とにかく三重県まで行き、Nattui邸でオフ会。3人だったと思う、いや関西組がいたかな?その帰りの名張駅の夕方と夜の堺の時間。冬だったとおもう、電車が暖かいなと記憶があるから・・ホームには私とKandata氏だけ、遠くに駅員さんがいたかもしれない。電車は中々こない。学校って楽しいのか?ってKandata氏に言われて少し驚いた。彼は頭が良いだろうと、確か親父さんは脳外科か何かだったと思う。彼はどこか良い大学にいるのだと思ったら、中学くらいから学校に行ってないと言うのだ。でもなぜかそれは驚かなかったし、理由の話題は出なかった。で、学校は面白いのか?という話から高校いってなくても語学の専門学校はいつでも入学が出来ると私が何故か語った。彼がロシア語に興味があるという断片からだったと思う。彼は凄く真面目に考えていて、高校を卒業していなければあらゆる学校には行けないと勝手に考えていたのだった。「いつでもなんでも入学出来る、お金払えば。はいれば?」という私の他愛の無い言葉に彼が急に笑顔になったのがとにかく印象的だった。そこからの行動が早く、彼はすぐに入学し、夜にはその学校では面白いやつがいっぱいいるだの、楽しいだの、今度ロシアに行くだの・・その様子がよく伝わってきた。で、その当時クラブミュージックは2STEPという新しいハウス・ミュージックが流行ってたんだけど、ちょっと前までジャズがいいかなとか言っていたKandata氏もその2STEPをクラスメイトから聞き、ちょっとした事情通にいつのまになっていた。そこでハウスなら任せとけとばかりに自分は代名詞であるアートフル・ドジャーのリミックスかウーマントラブルか何かの盤の話を彼に推薦した。彼はひとこと「悪くはないけど、いまはこっちのほうがイイよ」と。そのときちょっとあー、ロシア語の学校いくような奴はいけすかねぇ・・wとちょっと思ったとさ。

長くなったので今回はここまで。

次回はミックやくり先生、他のチームとの抗争、海外戦、崩れていく社会人の生活。そして引退まで。

引退後、最後のやりとり。を覚えている限り書きたいと思います。

このサイトを見て、突然書きました。

https://w.atwiki.jp/oldmoon/pages/62.html
https://w.atwiki.jp/oldmoon/
 
"Myth log archive"

このサイトの管理人の方は存じてないですが、MythIIを私がやめたあと活発だった方々の名前が結構みかけるので、プレイタイミングが被っていないと思います。

ただ名前はぼちぼち見覚えはありますね。この頃はもう最終期でほとんどやってなかったかな。最後の日本人コミュニティ達なのかな?
あれ?Mythlogの”old moon"あれ?!あれ!このひとずっといたぞ!ずーーーっといた人だ、100回は対戦している。あれ?!えっと k.takeさん・・?いやあれーーーだれだっけ・・ずっと見てるIDだぞ・・思い出せない>< Pforkenさん?takeさん?あれーーー?!


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