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「企画書」読書メモ14

Ⅱ.

「映像メディア」

変動期のテレビ(あなたは単なる装置にすぎない)

今の五〇歳前後の平均的サラリーマンと、二〇歳の大学生の情報量は比べものにならないだろう。しかも、ニ〇歳の人間の持ってる情報のほとんどは、体験から吸収した情報ではない。個人的なものではなく、誰もが持っているもの、つまり、メディアから収集したものだ。だから情報に重さも裏もない。情報はただの情報でしかない。(p.161)

この本の発行年は80年代なので、それより先に生まれた私は、もっともっと、原体験ではなく情報社会の洪水の影響をモロに受けているのだろう。そのことについて、もっともっと自覚的になるべきなんだろうな。何かをまるで知った気になっているけど、そのほとんどが原体験を通過していないという事実に。

戦後を企業のために走り続け、簡単に追い出されてパチンコでもやるしかない中年と、今なお走り続けようとする海部さんとが、ぼくには同じにみえる。パチンカーの時間を買えたとしても、海部さんは商社というシステムの中で、別の巨大なパチンコゲームに熱中していたのではないか。(p.164)

海部さんというと政治家が思い浮かんだが、海部俊樹さんのことではなく、海部八郎さんという実業家の話のようだ。パチンコに狂う人と、資本主義のマネーゲームに操られて生きることは、大して変わらない、というような話なのかな。

システム(商社とかメディアとか・・・・・・・)だけが、いくら巨大になっても精巧になっていっても、それだけではどうしようもない。それを構成している、ひとりひとりの生活と態度が充実していかなければ。(p.164)

システムに組み込まれ、操り人形のように生きるのではなく、システムをうまく使って生かして主体的に生きるには、どうしたらいいんだろうな?

逆流の時代へーTVと電話に関する個人的展望

やがて、人間の数だけチャンネルが登場するに決まっている。(p.166)

という一文は、まさにyoutube時代の現代を完全に予見している。

視線

テレビのカメラが風景を、例えば猫をとらえる。それは一瞬にして全国の何百万人の人間の前に映る。全国に何千万人いようと、「見る」という行為は個人的なものだから、ひとりひとりが猫を見ることになる。
しかし、正確に言えば誰も猫を見たわけではない。猫を見たのはテレビカメラだけだ。何百万人のひとりひとりは、実は「猫を見た」という体験をしたのではなく、「猫を見たというテレビカメラの体験を見た」のである。
ややこしいハナシでメンゴ。でも、このことをしっかりと押さえておかないとこれからのメディア社会の中で、おっそろしくゴーマンな人間が出てきちゃいそうなんだ。

(以上、p.167)

起こっている事実だけでなく、起こっていることに対する視線、味方、考え方までセットで私たちは観させられているし、それくらいならマシで、事実を捻じ曲げて、メディア側の都合のいい偽りの情報を観させられていることだって大いにありえるという話。自覚的になろう。起こっている事実、をしっかり発見する方法をしっかり身に着けていこう。

画面

北国の海辺が映っているとすると、北国の海辺を見ている、ある個人の視線も映っている。(p.168)

メディアは、情報は、取り扱い注意だな。一次情報をできるだけみつめていきたいな。

ぼくはTVに対して作品論的な充実を望んでるわけではないのです。ただ、世界のあらゆる風景と、ぼくの個人生活をつなげてくれる窓としてのシステム充実をのぞんでいる。(p.168)

もっともっと交流を、もっともっとコミュニケーションを、ということかな。一方通行的な情報発信装置としてではなく。テレビの後に登場したインターネットによって、橘川さんの満足度は少しは上がったんだろうか。

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