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田中真知「風をとおすレッスン」を読む

久しぶりに本を読み終えました。

社会に生きているかぎり、ふだんの私たちは社会的に承認されやすいアイデンティティを「私」として生きている。しかし、その「私」の奥には、べつの「私」がいくつも隠れているかもしれない。(p.33)

「私」という言葉があるから、「私」という固定したものが存在していると捉えてしまうのであって、本当は諸行無常のつかみどころのないなにか、到底、言葉で簡単に規定できないような何か、が、私たちが、「私」と捉えている正体なのかもしれない。

「しばらくそのままにしておき」「出たままにしておき」というのは、結論に向けて話し合いをコントロールしようとしたり、多様な意見を一本化しようとしたりせず、その曖昧な状態をそのままにしておく、ということだ。(p.51)

人と人とが話しあえば、緊張が生まれるのは自然なことだ。その緊張が各自の中でほぐれていくのをしんぼう強く待つ。(p.51)

結論を出すことを目的にするのでもなく、権威に従って物事を決めるのでもなく、客観的データにもとづいて判断を下すのでもなく、寄り合いの参加者ひとりひとりに納得感が生まれるまで、のんびり話し合いをつづける。(p.51)

人と人が出会い、交錯する、その場、そのものに、正解を求める以上に、敬意を払って大切にする。違いがあっても違いは違いのままに、出会い、交錯し、場をつくるプロセスとして、それ自体を貴重で神聖なものとして取り扱うことが大切なのかも。

人の心がすべて「わかってしまう」天使には、世界をいろどる豊かな色彩を見ることはできない。(p.57)

他者とのコミュニケーションを阻む最大の障壁は、相手を「わかったもの」にしてしまうことだ。(p.57)

他者に対し、先入観で対応するということは失礼なこと。自分も、他者も、常に変化している。その新鮮さ、貴重さを、きちんと自覚して、未知なところがある存在として、わかっていないところがある、無知の知を自覚して、コミュニケーションすることが、敬意というものなのかもしれない。

本音とは、土の中に埋もれた宝物のように、最初から自分の奥深くに埋まっているわけではない。むしろ人との関係性や対話の中で、わからなさの中から、徐々にあぶりだされてくるものだ。(p.59)

わからないから、面白い。関係性・対話の中であぶりだされてくるもの。それが自分っていうのは、まさに「人間」という感じがする。

互いが安全に傷つくためにこそ対話がある。人は傷つくことなしに生きられない。生きるとは傷を受け、そこから回復することのくりかえしにほかならない。傷がとり返しのつかないほど深くならないようにするためにこそ対話をつづけるのである。(p.70)

 リカバリー、レジリエンス。そういった力を培うためにも、対話することを日常的に、意識的に。組み込んでいこう。やっていこう。

好みの中にいるのは快適だが、その快適さが檻となって外に出られなくなってしまったら、かえって生きづらくなりかねない。自分はなにが好きなのか、ということは、案外自分ではわからない。(p.84)

それを知るには、快適さの外へ出ることが必要なのだ。そのためにこそ「わからないけれど、まずは信頼して動いてみる」ことだ。(p.84)

好きとか嫌いとか、そういったことに囚われて生きているというのは、実は貧しいことなんだよな。

仮に自分が奴隷貿易時代のアメリカの白人として生まれていたら、ナチス時代のドイツの兵士として生まれていたら、1990年代にルワンダで起きた大量虐殺の現場にいたら、あるいはウクライナを侵攻する現代のロシアに生まれていたら、(p.90)

いまの自分には想像もつかない極端な思想をもち、人道的にゆるしがたい行為に手を染めていたかもしれない。そして、人生もまったくちがったものになっていたはずだ。(p.90)

鎌倉時代の親鸞という僧は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)と述べている。この自分とはさまざまな縁、つまり過去から現在に至る無数の人間関係や環境などの要因がかさなりあってできた結び目であり、(p.90)

その縁によってはどのような行為でもしてしまうのが人間だ、という意味だ。(p.90)

 こういう想像力をもってこそ、「人間」。

イヌやネコとの関係はいわば「期待するコミュニケーション」であり、それに対してカメとの関係は「期待しないコミュニケーション」なのではないか。(p.94)

不思議なことに、期待から解放されると心が穏やかになる。(p.100)

「期待するコミュニケーション」は、刺激的で面白いし楽しい。「期待しないコミュニケーション」は低刺激だが、穏やかだ。面白さや楽しさを、低刺激・穏やかさの中から見出す知性が試される。

「相手は自分とちがう世界を生きている」と知り、その関係が「対等」で「取引になっていない」ということだ。(p.101)

 こんな関係性が当たり前になればいいと個人的には思うけど、現実社会は全くそうではない。

「期待しない」とは、あきらめではなく、むしろ信頼だ。(p.106)

長い目でも人を見守る意識。早急にわかりやすい結果は出てこなくても、祈りをこめて、きっと大丈夫、と思って、自分の期待と違ったら違ったで、それもまた、新しい価値として認められるような余裕。

人は馬鹿を必要とする。(p.118)

自分の不幸をごまかすために、相手を馬鹿に仕立て上げて、それを相手に思い知らせようとするのは「いじめ」の構造である。(p.118)

いじめは、自分に自信がなかったり、劣等感があったりするなど、精神的に満たされていないときに、自分より弱い立場の者を探して、その自尊心をくじくことによって、自分を癒そうとする行為だ。(p.118-119)

 いじめって気持ちいいからなくならないんだよね。いじめをすることで、向き合いたくないことをごまかしたり、中途半端に心を癒せちゃったりするもんだから、短絡的に、多くの人が飛びついてしまう行為なんだよな。

攻撃的な言葉だけが「呪い」になるわけではない。どのような物語も、そこから逃れられなくなれば呪いになる。「ふつうの家族ってすばらしい」とか「親子なら、きっとわかりあえる」という言葉も、スタンダードな家族や親子の形が存在する、という前提の上に成り立っている。(p.133)

そうでない家族や親子関係の中で育った人にとっては、それもまた呪いになりうる。(p.133)

「感謝」とか「絆」とかポジティブワードほど、「呪い」としての力、同調圧力は、より強くなりがちですな。

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