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三島由紀夫『天人五衰』の風景(2.2)

信号所から読む「天人五衰」

はじめに

2020年11月、三保で行われた50年目の憂国忌企画をきっかけに、三島由紀夫『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の前半部を地理的な視点で読み返すという作業をしているnote三島由紀夫『天人五衰』の風景は、さしあたり(1)を三保から始めつつ、駒越の重要性について再認識を促そうという狙いがある。追々三島からも離れて駒越そのものを論じようと考えてもいるのだが、(2)では、21年の憂国忌に報道された信号灯を起点に、信号灯と信号所についての基本情報を整理し、(2.1)では「天人五衰」冒頭から「九」までを順を追って読んできた。このパート(2.2)は、いよいよ安永透と本多繁邦が信号所で実際に対峙する「十」以降について詳しく見ていく。この時本多の傍らには「錦蛇模様のプリントのパンタロンに、同じ生地のブラウス」を着た慶子が、方や透側には帰る絹江の印象が残り続ける、ということも忘れてはならない。

二人の「認識者」

本多と慶子が鉄梯を昇り始めるとき、絹江とすれ違う。ドアの内側の階段の上下で挨拶する時、透の髪には萎んだ紫陽花が挿してあり、それが転げ落ちる。そのあと、初対面で本多は透の美しさと、本多と通じる内面の荒涼を感じ取る。そして、いよいよ2階に上がる。
「南の窓の五十米ほど先に、駒越の浜と濁った海が見られた」という描写は、現在の畑と浜の境界を考えると近すぎるのが気になるが、自覚的な改変かどうかは判らない。
本多と慶子はここでまず、望遠鏡を覗く。
レンズに映る船影は一つもなく累積した波ばかりひしめいている。顕微鏡の中で、何のためともわからずうごめきつづける青黒い微生物を見ているようだ。
この描写は南面にある30倍の望遠鏡の視界である。そして「二人は子供のように望遠鏡あそびにすぐ飽きた。とりたてて海を見たかったわけでは」無かった。
透が勤務中殆どの時間眺め続け、解釈し、認識し続ける海に、本多は何の意味も見いだせない。本多はあらゆる事象に対して認識能力を発揮するわけではない。むしろ経験や書物による知識が優位の人と言って良い。
望遠鏡に飽きた二人は次に室内を見渡す。ここには各種備品の他に、「清水港在港船」と大書した黒板、参考書類の本棚、各種連絡先の書いて壁に貼りつけた紙などがある。「それらには疑いもない海の匂いがあふれ、ここから四、五キロ彼方の遠い港の反映があった」。そこから「本多は少年の心に入って」しまう。少し後で「これはすべて本多の幻想だったかもしれない」と譲歩を付けるものの、「が、一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多のなかで自得したものがあった」と続け、透の内面を正確に把握し得ていると言う自覚は揺るぎそうにない。
ところで、今引いた、室内の各種情報と港との関係の描写は、すぐあとに「港とこの小さな信号所の部屋とは、港の反映をここへ収斂させて固く結ばれ、ついにはこの部屋自身が、自分を高い巌の上へ打ち上げられた船であるかのように夢みていた。……日もすがら夜もすがら、海と船と港とに縛しめられ、ただ見ることが、凝視することが、この部屋の純粋な狂気にまでなっていた。その監視、その白さ、そのあなたまかせ、その不安定、その孤立そのものが船だった。」と反復、敷衍される。今は深く立ち入らないが、ここも「船の挨拶」を想起させる。
この引用部の直前に「ここの東の窓からも港は雑然と、煙霧の下に凝縮して眺められるが、輝いていない港は港ではない。」とある。本多は、「二」の最後で、信号所の前から清水港の「錯雑とした姿」を見下ろしながら「海はそこでは、寸断された輝く蛇のよう」と形容し、そのずっと上方に富士を認めて「満足」している。彼我の違いは季節や時刻によるのか、本多の(透の内面に入り込んだ)認識なのか。
いずれにしても確かなのは、本多は「実存」としてでは無く、「認識」としての清水港を見ているということだ。信号所には認識され、記号化された清水港のすべてが忠実に再現されている。それはしかし、復号すればすべてが元通りになる様なものではないのは言うまでも無い。

黒子(と手旗信号)

「十」の終盤、退屈して口紅を塗り直していた慶子が退出を促しつつ手旗信号に気づくことで、本多が透の脇腹に三つの黒子を見つけるという、最大級のクライマクックスが到来する。
この場面は短期間に書き上げたにもかかわらず周到に用意されたかのような緻密さで構築されている。細かく見よう。
この部屋に使われなくなった手旗信号が置かれていること、透がランニングシャツ姿であること。ついでに言えば、慶子が錦蛇柄の服を着ていることも、既に書かれていた。唐突に持ち出したことではなく、映像化するなら常に目に入るレベルだ。
慶子は棚にある手旗に気づき、用途を問い、透は「あれ、今は使っていません。手旗信号旗です。夜は発光信号だけですから」と答えて投光機を指さす。慶子に促されて爪先立って棚から旗を取ろうとするとき、本多は黒子に気づく。しかし、その重要な発見は焦点化されることなく、手旗信号の解説に移る。ここで、慶子は、具体的には「L」と「G」を例に個別の文字と、それを表す手旗の色・柄の感覚の齟齬について言い募る。
取材で得たちょっとしたトリビアの挿入のようにさりげない話題であるが、直前に黒子の発見が書かれていることで、俄然大きな意味を持ってくる。
本多にとって、20年周期で現れる若者の脇にある三つの黒子は清顕の顕現としての「意味」がある。それが、本多にとっての事実である。しかし、今、目の前で、透と慶子は、まさに、意味するものと意味されるものとの相関に関する疑いを提示しているのである。
 
ところで、この部分には、ひとつ、不思議な問題がある。
慶子が、「L」についてダメ出しをして、むしろ「G」だというと、透は「Gは黄色と白の縦縞です」と答えるのだが、実は、国際信号旗の「G」は黄色と白ではなく、黄色と青の縦縞である(海保サイト参照)。三島の創作ノートにメモがあって、「青」の記入漏れらしいことが判っているので、単純な記憶違いだろう。
しかし、「船の挨拶」には「Gは濃紺と黄の縦縞の旗」という記述があるので、どこかで修正されても良かったはずなのだが、さすがの新潮社の校閲も気づかずに今まで継承してきたのだろうか。仮にもし、この間違いが意図的なものだとしたら、それは透の造形にどういう影響があるだろう。或いは、執筆時における三島自身の問題なのだろうか。「正解」を得ることは最早不可能であるが、まさに「解釈」そのものの不可能性を示してしまう例としてそれはそこにあるとしか言い様がない(と言う私の解釈)。

「十」の最後、本多は慶子に透を養子にしたいと言う。
「十一」はその後の所在なさげに「煙突マークの図版」を繰る透の様子。
これらはすべて、透の自意識とは全く無関係なものの徽章であった。望遠鏡の視界に入ってくるときにはじめて識別の対象になり、透の世界と関わりを持つけれど、それまで、世界中の海にまき散らされた華麗なカルタのように、透のあずかり知らぬ巨来な遊戯の手で、あちこちへ動かされているのである。/ 彼は決して自分の自我の反映ではないものの通り輝やきを愛した。この世に透の愛するものがもしあるとすれば、それだけである。

……それともこんな一連の花を髪に飾ってくるのは何か意味があるのだろうか。第一それは彼女自身の意志とは限らぬじゃないか。……絹江は何も知らぬまま何かの合図を運ぶように使われているのでは?

ひょっとすると、透の身辺に起ることには、何一つ偶然はないのかもしれない。突然透は、知らぬ間に自分の身のまわりに、緻密な悪の構図が張り巡らされているかのように感じた。

日本平

「十二」は信号所から日本平のホテルに移動した本多と慶子の様子である。信号所を出るとき、本多が唐突に透を養子にしたいと言いだし、慶子を驚かせるが、これを受けて、本多は、清顕以来の転生について、初めてすべてを打ち明け、慶子は真面目に聞く。本多は、「知った者」は美しさを失う「見者の五衰」を予見する。その後、本多は試験の夢を見、精神分析とは別の解釈を考える。そして、霧が去り月が出たらしい明かりを窓辺に感じながら眠りに落ちる。
蛇足を加えておくと、夜と言うこともあって、眺望絶佳の日本平観光ホテル(現・日本平ホテル)からの風景は描かれることがない。そして、少し先走って言うなら、日本平のホテルは、「十四」で、透がアパートから見上げる形でもう一度登場することになる。少し長くなるが「風景描写」として引用しておく。
 南のすぐ向うに、四千坪に及ぶ材木集積所があって、暗い灯下に巨きな断面の堆積を見せている。材木は時とすると、黙っている大きな獣のように見える、と透は思った。
 彼方の森の奥に火葬場がある筈だが、あれほど長大な煙突の煙にまじって見える火を、一度見たいと思いながら、透は見たことがない。
 南に黒々と空を劃している山塊の、頂が日本平である山をめぐって昇る自動車道路の、自動車の前灯の流動がよく見える。山頂にはホテルの灯が小さく纏まって煌めきを、テレヴィ塔の赤い航空標識が点滅している。
 透はまだそのホテルへ行ったことがない。贅沢な人間の贅沢な生活について何ら知るところがない。……

この後、富や平等について考えているところに所長がやってきて、養子の話に転じることになることを考えると、この作品に於ける日本平の位置も見えてくるのではないか。

観測

話を「十三」に戻そう。八月十日と日付が明記され、透の一日が時間を示しながら細かく描写される。おそらく、泊まり込み取材の成果を発揮しているのだろう。それは、ある意味冗長で、なくてもいいのかもしれないが、本当にそうだろうか。
すでに触れた所長の訪問が描かれる「十四」を挟む「十五」は透の仕事が描かれる最後の、そして極めて短い章である。「十三」冒頭は新聞記事から田子の浦の公害と全学連のデモに触れる。当時三島が直面していた学生運動の話題であるが、「そのざわめきは、倍率三十倍の望遠鏡を以てしても、はるかに視野の外にある。望遠鏡に映らぬものは、透の世界とは何の関わりもないのである。
午前中に絹江が来て、興信所の調査を想起させる、最近いつにも増して視線を感じるという情報から、また「美」を巡る話題に転じるが、今は触れない。
これに続く、清水港に停泊・待機中の船舶に関する記述は、確かに取材メモをそのまま流用しただけのように見えるのだが、ちょっとしたトリックのある叙述であることに注意が必要である。湾内の富士見埠頭、日の出埠頭、鉄道岸壁などの詳細な描写は、透によって望遠鏡で観察された風景のように読めるが、おそらく、実際には、港湾関係者との連絡の結果として黒板に書かれた情報と地理的な知識とが合成されたものであって、実景ではない。というのは、貯水槽の上にある二層の高い建物からあっても鉄塔に妨げられることもあって、これらの埠頭は信号所から詳しく眺めることはかなり難しい。前に書いたように、そもそも透の主な業務は、駿河湾を北上してくる船を見つけて知らせることであって、港内に停泊している船は情報として把握していればよいのである。それは、このパート冒頭で引いたように、「ここから四、五キロ彼方の遠い港の反映」である信号所と港と、記号と現実との対応関係を示している。
そして、業務が一段落すると、透は望遠鏡にとりついて海を眺める。水平線の見える沖側、すなわち、三十倍の望遠鏡で南方を見ていることは、了解しておく必要がある。三十倍の望遠鏡で見る波が、微細に描写される。本多や慶子が何の興味も示さなかった世界が広がっている。
4:40。青空が現れる。「望遠鏡のレンズはすでに波打際を離れ、天頂へ、水平線へ、ひろい海面へと向けられていた。/ そのとき、一瞬レンズの中に現れた、天にも届かんばかりの一滴の白い波の飛沫があった。」ところから、全体と断片への思索。 
4:45。浜に釣り人、ほかには何もない。
5:00。波の色で、日が傾きだしたことが知れる。そして、出航していくタンカー。さらに波打際の描写と思索。ところが、「そのとき透の望遠鏡は、見るべからざるものを見た。」と、唐突に転調する。「別の世界」。それは、「たしかに一度見た場所だというおぼえがあるのは、測り知られぬほど遠い記憶と関わりがあるのかもしれない。過去世というものがあれば、そうかもしれない。」のだが、一方で、「その世界がこの世界と同時に共在していなければならぬという法はない。そこに仄見えたのは、別の時間なのであろうか。今透の腕時計が刻んでいるものとは、別の時間の下にある何かなのであろうか。
そして、透は「その望遠鏡までが忌まわしくなって、部屋の別の片隅の、倍率十五倍の望遠鏡へ身を移して、今し出港した巨船の姿を追」い、情報を横浜の本社へ電話連絡し、「又倍率十五倍の望遠鏡に戻って、マストも靄におぼろげな山隆丸の行方を追った。」
船が視界から消えると望遠鏡を離れて窓下を見下ろし、苺のビニールハウス西線を転じる。景色ではないが、ここに「促成栽培用の苺の苗が、富士山の五合目へ運ばれて人口の冬を迎え、十月の末ごろここへ持ち帰られて、クリスマスの売り出し用に間に合わされるのである。」と言う形で富士山が出てくる。「人口の冬」は何か示唆的ではある。
5:40。半月、雲、海辺の松林、釣り人、子供たち。
5:50。「普通肉眼には決してつかまらない、ごくかすかな船の兆」を見つける、それは清水の金指造船所で、去年の春竣工したばかりの大忠丸だと確信して代理店に電話。
6:00。大忠丸とすれちがう興玉丸を描きつつ、「それはいわば夢の中からにじみ出てくる日常の影、観念の中からにじみ出てくる現実、……詩が実体化され、心象が客観化される異様な瞬間だった。無意味とも見え、又凶兆とも見えるものが、何かの加減で一旦心に宿ると、心がそれにとらわれて、是が非でもこの世へそれを齎さずにはおかぬ緊迫した力が生れ、ついにはそれが存在することになるとすれば、大忠丸は透の心から生れたものだったかもしれない。はじめ羽毛の一触のように心をかすめた影は、四千噸に垂んとする巨船になった。それはしかし、世界のどこかでたえず起こっていることだった。
船舶名鑑に掲載され、実際に清水で造船された船の出現と、透の心の関係。
6:10。カブトムシのように接近してくる船。
6:15。肉眼でもはっきりわかるが水平線上に置かれたままに見える。
6:30。煙突マークと積荷のラワンを確認。
6:50。大忠丸が目前の水路に入り真横になる。積荷のラワンから「満載喫水線規則」に転じ、「熱帯域」の定義に転じる。この豆知識の披露は「大陸から大陸へ、大洋から大洋へ、見えない糸を縦横に引いて、その中を「熱帯」と名附けると、「熱帯」が突然身を起こした」という、「名」とその対象と言う問題を導くことになる。
7:00。大忠丸は二つ目の鉄塔を過ぎ、関連各所に電話連絡をするところで「十三」は終わる。
これは、入港してくる船舶の発見から連絡まで、一連の透の業務を描写したものにすぎないように見えるが、抄出引用したように、そこに、透の見ている世界が映し出されていることは注意しておく必要がある。

死相

「十四」は先に触れたように、八月下旬のある晩、非番の透を船原町のアパートに所長が訪ねてきて養子の話が齎され、やりとりの末承知するまでが描かれる。その冒頭に、いまだ縁の無い日本平ホテルを見上げる透がいたわけだ。交わるはずのなかった二つの世界が繋がろうとしている。
そして、「十五」は、その翌日、もう一日非番の透は映画を見、港へ行き、翌朝9時に出勤する。その日の美しい夕景の空から始まる描写は、やがて遠近法のトリックのように見え始める。
白い埴輪の兵士の群のように居並んだ雲の中には、上方が黒く逆巻いて、竜巻なりに天へ繋がっているものもある。崩れかかった形が、薔薇色の光りに染っているのもある。そのうちに横雲の色が、一つ一つ淡い紅や黄や紫に分れて、これに従って、積乱雲の色が健やかさを失った。透が気づいたとき、先刻あれほど白く輝やいていた神の顔は、灰色の死相になった。

駒越から

これを最後に、小説の舞台は東京に移る。「十六」は本多の経済生活を描写しつつ、ジン・ジャンの忌日と、透の身辺調査の結果が殆どを占め、「十七」では既に透は東京にいる。結局ジン・ジャンの忌日と透の誕生日の前後関係は明確に出来ないまま話が進む。「十六」は、時間の流れや輪廻に関する本多の考えも示される興味深い章であるが、今は深入りしないでおこう。
上に引用した短い「十五」で描かれる風景は、明らかに透の未来を暗示しているように読める。我々は、繰り返された風景描写を「解釈」せずにいられなくなっているのだ。
さて、これで、「天人五衰」における駒越の考察は終わったはずである。しかし、実は、「後で述べる」として先送りしてきた宿題が残っている。それは、「天人五衰」冒頭、透が見たと思しき「乳海攪拌」や「三羽の鳥」であり、本多が満足した清水港越しの富士山である。この、駒越から見た二つの風景、二つの世界を読み解くには、透が生を享けるより前、「暁の寺」の世界に溯る必要があるだろうが、長くなったので、別に書くことにしよう。

それにしても、ここまで来ると、駒越を中心に、富士を望む三保・清水港、そして日本平という現実の地理的な位置関係が、極めて象徴的な役割を果たしているのではないかと言う解釈もあながち無理ではなくなってくることも付記しておいて、このパートを終わることにする。

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