物欲との折り合い
都会からの出戻りこそ12月の末だったが、こちらでの生活基盤が整い、生活リズムや心の面におけるいびつさがやっと無くなったのは、もはや今日だった気がする。
これはきっと、ストレスの要因となりうる物が、今日をもってすっかり消えたからだ。
とは言っても、観葉植物の鉢皿を、瀬戸物からプラスチックに変えただけだ。
瀬戸物の鉢皿を移動させるとき、木でできた床や出窓をゴリゴリと擦る音に、長らく気をもんでいた。
木を傷つけるのが、木に対して申し訳なくなったのだ。
あえてプラスチックに変えて思うのが、そんな些細な事でもストレスに感じていたらしい。
何も悪びれることなく、家に引きこもれるようになった事も大きい。
楽しむことを探しに行くと言っても、植物を観察しているだけで楽しいし、落ち着く場所を探しに行くと言っても、西日に照らされたシマトネリコを見ているだけで落ち着つくし、落ち着きを通り越して恍惚としている。
いつから在るのか分からない椅子と、台所の雑用係(スツール)を部屋に持って来れば、それだけで自然の中、小さなお茶会が出来る。
先日は友人を招き、緑色の生き物たちを見ながら、緑色の飲み物を飲み交わした。
「カフェなんかより全然良い」というお墨付きを頂いた。
秘密のお茶会は、今後とも催していきたい。
定位置の椅子に座り、同じ時間に毎回耳を澄ませていると、それぞれテイストの違う「月曜日の音」や「土曜日の音」などがあることに気づく。
土曜日の音は一番自然のボリュームが大きく、日曜日の音は人工のボリュームが大きい。
あえて音楽をかけず、このBGMを部屋で聴きながら、お出かけをする近所の人や街宣車を見送る。
この習慣の中で、その日そのものを嗜んでいる気持ちになる。
一日一日、丁寧に嗜んでいきたい。
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あるnoterの方の記事や、あるミニマリストの方の動画いわく、「ストレスを感じると物欲が大きくなる」ようだ。
この考え方は、いろいろな場所でたまに目にするもので、自分の中ではとても納得できるものだった。
だから、逆説的ではあるけれど、物欲で物を買わないことにした。
本当に必要かどうか、小さな苦しさを解いてくれるか…また、手にして日々が"本当に"充実するか…を考えるようになった。
大量消費のフィールドは、ストレス反応に漬け込むペテン師なのだろうか。
意図的に、けばけばしいチラシや眩し過ぎる店の明かりで精神的負荷をかけ、甘い言葉とその化身となった品物を売りつける。
ペテンではなく真っ当な商いであることはもちろん間違い無いけど、ストレスを引き起こすシステムが意図せず働いてしまってることは否めない。
それを心算してイオンに出向いても、さすが巨大なモールなので、勢いに飲まれて自分を見失う。
穏やかな心を保つために、部屋でAmazonを開いて一式頼もうとするが、必要なものに限って売られていないため、愛想を尽かしてプライムを解約した。
便利なのか不便なのかますます分からない世の中だ。
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