こにたん

INFJ-T × HSS型HSPの、考え事や日頃の出来事。

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  • 暮らしのつぶやき

    そっと動いた気持ちを、まだ心が冷めない間に残します。

  • フィルムでなぞる記憶

    一生の中で、一度しか来ない瞬間。

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《自己紹介》

このアプリで、思った事を憚り無く好き放題書いている割に、自分のプロフィールを隠していることが申し訳なくなってきてしまった。 <ルーツ> 佐賀県の呉服屋と医者がどこかで交わり、さらに南大阪の地主が交わった系譜にある。 趣味や学問は自分で決めてきた…というより、示してくれるロールモデルもおらず、自分の選択に反抗されるなら耳を貸さなかった。 自分を育ててくれた親に対して、その反抗の謝罪としては、少しばかり勉強の成績をよくしておいた。 <カテゴリ> AB型、HSS型HSP、I

    • みんな同じ

      緑地を散歩していると、コアオハナムグリが居た。 カナブンやコガネムシとよく似た甲虫で、花の中によく潜っている。 私がまだ無垢で幼かった頃、ハナムグリはもちろん、カナブンやカブトムシを捕まえに行ったことを思い出した。 またあの様な思い出を作りたいと思った数秒後には、彼は私の握り拳の中に拘束され、5分後には円柱のガラス瓶の"監獄"に閉じ込められていた。 監獄はよく日の当たる所にあり、栄養豊富なバナナも供給されている。 次の日の朝、私は彼より早起きだった。 例の緑地を日毎に早く巡

      • 出し抜けに朝食を抜いてみる

        昨日の朝にふと思い立ち、朝食を抜いてみたら自分の活力はどうなるのかと気になり、実践してみた。 元々昼食を摂らない生活を続けており、何かを咀嚼するのは晩ご飯のみということになった。 朝こそエネルギーを蓄える、エネルギーの必要な仕事の日はよく食べる、などの当たり前の定説に疑ってかかってみた。 果たして、その日はこんな結果だった。 ・種々の雑念からの解放 大抵、疲れていたり心がいつもより神経質な日は、こんな行動を取っている。 -メールを送ろうにも何回も書き直し、送ろうとしない。

        • 春風と

          昨夜からずっと、春らしい、穏やかな優しさを含んだ風がずっと吹いていて、気持ちよく寝られたし、また気持ちよく目覚めることができた。 朝は基本的に雨が降らなければ緑地に出向いて、風景を見るというよりは感じたり、小鳥たちの合唱を聴きに行ったりする。 そんなわけで今朝も緑地へ出かけた。 もう朝は常に、例の優しい春風がそよいでおり、両手を広げて体全体にその風を浴びた。 息をするたびに、草花の香りが入ってくるのが気持ち良い。 心に抱く不安すべてが、優しさに変わっていくようなひと時だった

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        《自己紹介》

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          20本
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        記事

          鳩と友だちに

          私にとって、いろいろな学びとなっている「鳩」。 通勤途中または昼休みに、同じ群れの鳩たちを目にすることが当たり前のようになったこの頃。 その中の一匹にひときわ親近感を覚えたので、どうにかして近づきになりたいと思うようになった。 朝、出勤前には彼を探して目の前まで向かい、昼は手軽な優しいパン(もはや自分よりも鳩の心配をし、成分の優しいパンをこしらえた)を彼とともに頂いた。 そんな試みが続いたある日、もう自分を見るや否や彼がいの一番に来るようになった。 いつも臆病そうに、しか

          鳩と友だちに

          もう一歩、許せるようになる

          週3日ある休みの日は、雨の降る日以外はいつも緑地に出かける。 朝の叡智とも言える何かを浴びに行き、今日を生きられることに感謝する。 まだ殆どの人が起きていない時刻に出かけるのが、孤独の中にある至福となっている。 早朝の雨後、暖かくなり目覚めたナミテントウが、まるで自分専用の席であるかのように、そこら辺から伸びるひときわ背の高い草(名前はわからない)の群れに、綺麗に一匹ずつまとわりついていた。 草のてっぺんにはアブラムシ達が屯しており、それを朝食として召し上がっているらしかっ

          もう一歩、許せるようになる

          気を楽に生きる

          言葉尻を捉えて、もはや同じものとして扱われている語句を、別々の意味で解釈し直す遊びに入れ込んでいる。 聴き心地なのか語呂なのか、その言葉の何かが自分の潜在意識へ突き刺さり、瞬く間に自分の習慣へ溶け込んでいく瞬間がある。 そんな意味で言葉は、人生をよりよく生きる道具として非常に役に立つ。 最近では、「もう少し肩の力を抜いて生きたい」と思った時、「楽にいく」より「気楽にいく」という言葉の方が刺さったということがあった。 「気楽にいこう」や「気楽に生きる」と言えば、その人自身が

          気を楽に生きる

          役に立つ事、ビジネス、noteは同じ

          役に立つこと(地域貢献活動や恋人への手助け)、ビジネス、noteやその他創作活動など。 これらは実は同じカテゴリなのではないか?といつしか考えるようになった。 なぜなら、それらを行った結果、浸りたい気持ちや得られる人生の効力感は驚くほどに同じだからだ。 きっと、ただ純粋に、生きていることを目に見える形で刻みたいだけなのだ。 古代人の遺跡にメッセージ性の無い、もはやアートとも呼べる壁画が多いのは、「自分はここで生きていた!」ということを何よりも伝えたかったからなのではない

          役に立つ事、ビジネス、noteは同じ

          音を楽しむためだから

          どれだけ聴き心地の良く、リラックスできる音楽を提供されたとしても、聴くタイミングを削ることにした。 この頃朝は、町の人工的な音をかき消すために、リラックスでき、お気に入りの曲を毎朝いくつか聞いていた。 だが朝の初っ端に5曲も聞いて1日を過ごすと、ずっと疲れていることに気づいた。 芸術的な音を楽しむためではなく、環境を捻じ曲げようとする自分の完璧主義的な欲望の矛先として扱っていたことに気づいた。 こんなことで朝から生活を濁すわけにはいかないと思い、最近はむしろ町の音に耳を傾け

          音を楽しむためだから

          生き急がない

          雨の降る朝に傘を畳みながら、またある時は日差しの届く朝にコーヒーを淹れながら不意に思ったことは、やはりペースを落としても良いんだなと言うことだった。 時には1人でいる時さえ、何かを急がねばと思うことがある。 なぜ、そして何に対して急ぐかは、明確な理由や事柄は思い浮かばないが、おそらくは、早くしないと何か不吉なことが起こるという、漠然とした不安を背負ってのことだと思う。 余白、穏健、低速を習慣にしても、やはりまだ「生き急がねば」という毒草の根は抜け切れていない。 どうやら、

          生き急がない

          隔絶から繋がりへ

          印象的には、人と自然は切り離されがちだが、やはり人も自然の一部で、どれだけ威張ろうとも、自然の循環の中における一部でしかないことに気付かされた出来事があった。 ベランダに、育てている植物目掛けてミツバチがやって来た。 今の時期は、花粉をつけたデイジーが窓辺で咲いているから、おそらくそれを狙ってきたのだろう。 しかし訪問の際に何かに激突したのか、足を怪我したようで、デイジーより低く生えているカモミールの若苗たちの上に転がっていた。 トネリコの枝をちぎって足場を作ろうにも、もう

          隔絶から繋がりへ

          欲深い自分を納得させる

          良い意味でゆるく、されど自分を活かす。 この理想像に必要なのは、逆説的な言い方だが、理想幻想ではなくあくまでも現実と自己を引き合わせることにあるんだと考える。 消費の魔窟へ入ると、知らぬ間に、自分の平均・基準・そして理想が勝手に上昇するという魔法にかけられる。 あくまでも、その洞窟に訪れる盲目な探検家たちの平均装備が並べられているのであって、自分にとって、たとえば懐中電灯や長靴が必需品だとは限らない。 そういった平均的な品物を、さも絶対に買うべきかのような風潮も不思議に思う

          欲深い自分を納得させる

          そのものを見る

          もう不自由なく生きていけてるはずなのに、無いものねだりに忙しく、隣の芝生は青く見えるし、ソメイヨシノと自分を比べては儚い溜息をつく。 自分はどうやら、抽象的で個人的な感覚に圧倒されすぎる事が多く、そうなればその場のリアリティを感じられないことが多いようだ。 今でこそ落ち着いているが、少なくとも2年ほど前には、もはや目に見える対象全てに、邪推とも呼べるような眼差しを投げかけていた。 内的自然や純粋な感覚を、皮肉にも鋭敏な感性によって見失っていたのだった。 最近は、そのものをだ

          そのものを見る

          ゆるす範囲の広がり

          うちの部屋には、たくさん植物が居る。 飽き足らず口にしたいのは、やっぱり静かな中にも動きがあるということで、ウンベラータからはバレリーナ、マドカズラからは海の波のような姿を見て取れる。 そんな様子をじっと眺めて、色々と考えたりするのは楽しい。 植物は思い通りになってくれない。 右へ伸びることを願っても左に行ったり、また自らが妖怪のような見た目に望んで変身しにいくように、葉を付け過ぎたり落としたり。 しかし、そうやって人間からの期待を無視してくれていて、内心良かったと思ってい

          ゆるす範囲の広がり

          朝の恵みと、自然の学び

          今朝はまれに見る清々しい目覚めだった。 この清々しさを与えてくれたのは、10時間以上たっぷりこしらえた睡眠時間もさることながら、やはり春の陽気からだった。 まだ大抵の人が起きる前、ガスなどに隠れず濁りなく降り注ぐ日光や、湿気に乗って運ばれる葉っぱや花の匂い。 こういった「朝の恵み」を味わえるものだから、生来の朝型体質には自分でも感謝している。 先日の、近畿自然歩道を少し歩き終えてひと段落してから、「自然から自分は何を学んだのだろう?」と夜考える時間をじゅうぶんに取っていた。

          朝の恵みと、自然の学び

          自然による頭の掃除

          日頃から街中の公園や緑道、近所の緑地には行くようにしているが、時折そこらに少しある自然の力だけでは足りない、何か体の中の細胞や"気"まですっかり入れ替えてほしい気になる。 ここ一週間ほどは、まるで私みたく神経症の頭の中のような雨模様が続き、そろそろ耐えられなくなっていた。 やはり日光が暫くお預けとなると、些細なことを何回も確認しなければ気が済まなくなるし、些細なことにしがみついては不安が増大する。 大自然による、自分の掃除が必要だと思っていた。 命からがら迎えた休日は、感

          自然による頭の掃除