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生き急がない

雨の降る朝に傘を畳みながら、またある時は日差しの届く朝にコーヒーを淹れながら不意に思ったことは、やはりペースを落としても良いんだなと言うことだった。

時には1人でいる時さえ、何かを急がねばと思うことがある。
なぜ、そして何に対して急ぐかは、明確な理由や事柄は思い浮かばないが、おそらくは、早くしないと何か不吉なことが起こるという、漠然とした不安を背負ってのことだと思う。

余白、穏健、低速を習慣にしても、やはりまだ「生き急がねば」という毒草の根は抜け切れていない。
どうやら、気分次第でどうにか出来ることではないらしい。
だから、永遠に幸福感に浸っている人や、いつ何時も楽しい人は居ないように、感情のコントロールは不可能だと考え、形から行動へ移していくようにしている。

形から入ってみて見事に習慣化し定着した、穏やかなるひと時は多い。
友人の目からしても、年齢の割にかなり年寄りくさく、のんびりしているように見えるらしい。
停滞そして退屈は「のんびり」と間違えられやすく、それでいて健康上よろしくないが、まずは生き急ぐような歩き方を手放すことで、自分の生きる歩幅が戻ってくる気がする。


春の草花の香りが芳醇な今日この頃に、ライラックの甘い香りを嗅ぎ、地面に散らばるカタバミの花に目を遣る。
のんびり歩くことで出会えた素敵な経験である。


ひとときを、大切に。

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