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本当の外食と、「家」に対する考え方

自然を見ながらの食事・お茶に明け暮れている。

身の回りにはアウトドアに関心のある友人や家族が居て、外のテーブルで来客をもてなしていれば活発になれる自分がいる。

食事は「人」を「良」くする「事」と書く。
家の中のキッチンには最近は色々なグッズが増え、人の手が入らなくなり、人が良くなっていく機会を減らしているように思う。

外でのご飯というと、食材はその場で加工し、焼き加減やお湯の沸騰には常に目を離せない。
手を動かすプロセスの中で、食卓を共にする人と、助け合ったり力を合わせたり、忘れかけていた絆をまた繋ぐことができる。
アウトドアの中で、本当の外食を知っていった。


以前は有り合わせの道具でコーヒーや紅茶を淹れ、鳥の鳴き声や色とりどりの落ち葉を眺めながら、静かに過ごしていた。
最近は”外食用の”鍋やフライパンを仕入れ、卵焼きやトーストぐらいなら食べられるようになり、腹をすかせた友人と手料理を夢中でむさぼるのだ。
工夫すれば、米を炊くこともできるようになるだろう。


小さな部分から、戸外でシンプルに、快適に過ごすための実証を少しずつ行っている。
今のところ、寒くても日中はトランクひとつだけで過ごせそうだ。
夜の間寒さをしのぐ場所は、やはりまだ自分の部屋に軍配が上がる。

少し暖かくなった連休に、数日間トランクと車のみで放浪をすることも考えている。
とはいえ完全に社会から切り離されるのは難しく、食材の調達のためにスーパーへ出向いたり、ガソリンスタンドでも車へ”食材”を与えるだろう。
そもそも車じたいが、社会の産物なのだが。

今の自分で、人工的なツールを出来る範囲で減らし、いかに自然に触れられるかを試してみたい。
そうすればきっと、本当に必要なものや、生きていくうえで要らないものや、普段は実態がつかめない不安の種も理解できるようになると思う。


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家に対する認識も変わり、狭くても良いと思うようになった。
自然の中に入れば、いつでも広さを享受できるからだ。
屋内で過ごす分には、トイレくらいの広さがあれば申し分ない。

自室は、便所や風呂を除いて家の中で最も狭い部屋だが、それでもなお大半は植物に埋め尽くされており、行動範囲と言えば椅子の上か布団の中。
範囲だけ計算すれば、ちょうどトイレほどになる。



いずれ、田舎にある程度の土地だけを確保し、家を建てようと思っていたが、もう小屋でも良いかと考えているし、もっと言うと東屋、もしくは寝泊りの出来るワンボックスカーだけでも良いと思うようになった。
結局は、屋根があって風と寒さを防ぐことが重要だ。


「home」という意味での家について考えるとき、建造されたコンクリートの塊よりも、吹き曝しの切り株やモクセイの下などを自分は思い浮かべる。

「ウォールデン 森の生活」の中で卓見だと思う一文があった。

贅沢なお金持ちの暮らしは、快適に"暖かく"暮らす必要をはるかに超えて、"暑い"のです。不自然な暑さです。

ウォールデン 森の生活 上
−ヘンリー・D・ソロー/今泉吉晴 訳

冬とは思えない、
とても暖かな晴れの日。
機械的にただ口に放り込む事が
多くなってしまったけど、
やっぱり食べ物は自然からの恵みだ。

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