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なんにもしなくて良い

連休は何だかんだで自然・植物と触れ合いながら過ごした。
先日うちにやって来たマドカズラとデイジーの植え替えを、外は寒いので植物を傷めないように室内で行った。

デイジーについて驚いたのが、昼に開いた花が夜には閉じていたこと。
花はもう、一度咲けば開きっぱなしだと思っていたので、こんな所でも生命の神秘を感じることができた。
これが、日々に転がる小さな幸せだろうか。

その傍ら、ウィークリーカレンダーを自作したり、アウトドア用の鞄をDIYで作ろうと思っているので、そのアイデアを練ったりしていた。
ひとつ、手を付けたい学問もあるのだが、学ぶとなれば腰は重く、とは言えいつから始めても、またいつに終えても問題は無いので、細々とじっくり取り組めればと思う。


一連の行いを仮に時系列で書き起こした場合、余白はじゅうぶんにあった。
その余白で何をするかと考えがちだが、何もしなかった。

窓から見える緑地の森が、木漏れ日を輝かせて揺れていた。
たまにそよ風が部屋の中にスルスルと入りこんで、シマトネリコの葉も揺れていた。
私はそれをただ、見ていた。


以前は余白が出来ると、何かしなきゃと焦り、不要不急の外出をしては疲れて帰ってきた。
そもそも疲れて帰ってくるということは、元々疲れやすい体質というのもあるが、例の焦りが神経を興奮させ、その時点でストレスを浴びて疲れているのではないだろうか?

これにやっと気づいたのは、茶畑の見えるお茶屋さんで一服している時だった。


「何もしない」をすることが出来たのは、「これで良い」と現在の自分を受け入れることが、少しずつ出来てきたからなのだろう。


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こうなれば、自己が認められるだろうという淡い期待。

広い部屋、大きい窓、かっこいい車、良い素材の服。
自分の外にある物理的な何かに対して、自己肯定のきっかけを求めようとすると終わりが無い。
自己肯定の条件に完璧に即した物や店なんて無いから、一旦満足すればまた別物を探し出す。


この、不確かなものを大きな期待を持って狙いに行く様子はギャンブルに似ているが、大儲けや大当たりを得る確実な方法は、自分でまるごと自分を受け入れてしまうことだと思う。
そうすれば、ぼったくりセミナーが”良い勉強代”とよく言われるように、損を出した自分さえも当たりになる。


そうして自分を認め肯定したのちに思い浮かぶことが、本来やりたかったことなのかも知れない。
自分はまだ、それが何か分からないが、それでも良いのだ。


日々是好日。
火をどこでも使えるようになってから、
凍死も餓死もしない事に安心したのか、
戸外にいる時間が伸びてきている。

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