シャッターとリロード
今野良介です。38歳。写真を撮り始めました。カメラを買ったんです。新宿で。2週間前に。Nikonの軽いミラーレス。
たぶん1年後には目を覆いたくなる内容になるのですが、2週間で感じたことは今しか書けないので記録しておきます。
なぜカメラを買った
iPhoneを持ってから、ずっとスマホで写真を撮っていました。カメラを買う前にスマホに残っていた写真は61,000枚ありました。作った本とか食べたものとか、動物とか友達とか酒とか徐々にハゲていく頭部の変遷とか、家族とかが写っています。記憶に残したくないものは記録しない。過去から未来への祈りを撮ろうとする現在。スマホにはいろんな機能があって、支払いも計算もメールもSNSも名刺管理も音楽もラジオも動画も全部スマホ1台でできます。その中でも写真の量はどんどん増えていて、ほぼ毎日撮っていました。どうやら自分は写真を撮りたいようではある。なんでこんなに写真を撮ってるんだろうと不思議に思い、その理由を知りたくなりました。
それならスマホのままでいいだろと自分の胸ぐらを掴んで数ヶ月間一本背負いを仕掛け続けました。でも投げ抜けずにカメラを買いました。わがままなメンタルとボディが重い。スマホに生活の全てが集約されていくと、そのすべての行動が「ついで」になります。乗り換え案内を調べたりTwitterしたり遅刻の言い訳をしたり著者に催促したり病院を予約したりTwitterしたりaikoのLINEをチェックしたり電子書籍を読んだりTwitterしたり今日の歩数を確認したりおもにTwitterする「ついで」に写真を撮る。写真アプリを立ち上げる前に別の情報が目に入る。それが不満でした。
写真をスマホから切り離したい。ただ写真を撮るためだけの道具が欲しい。撮る行為に集中してみたい。それが「カメラを買った」最大の理由です。
思った通り0になる
狙い通り、毎日使っていたスマホのカメラ機能を全く使わなくなりました。カメラに手をやるときは写真を撮ることしか考えなくなる。ああ気持ちいい。スマホから何を切り離すかで生活が変わるんだなと思いました。電子書籍から「読書」に触れる人も多くなったから、わたしは職業的に、スマホから「読書」を切り離して「紙の本」の世界に来た人が同じ感動を得られるような本を作れなければダメだなとか思いました。
それで、何日かパシャパシャ撮ってるうちに、カメラを持つということは記録用の目をあえてもう一つ獲得するということなんだと体感しました。どうせ記録できないからと諦めていた景色で立ち止まる。朧げだった世界の見え方を鮮明にできる手段を意図的に得る。子育ては子どもと同じ目線に立つことで世界と出会い直すことになるから楽しいというのが実感なんですが、写真も同じなんだと思いました。この段落書いててあたりまえすぎて体操したくなります。でも歳をとるほどに、知識のあたりまえを体感で塗り替えていくのは楽しいのです。
「写ルンです」をドンキに持っていく
撮るためだけの道具という意味では、カメラを買う前の体験はインスタントカメラまで遡ります。「写ルンです」とかの、ジーッ、ジーッ、カシャ、です。小学校の卒業式の時、もう一堂に会することはないと思ってクラスメイトを撮ったり、密かに想いを寄せていた他校の二つ上の陸上女子選手と何気ないフリをして撮ったりしていた頃です。
20年も30年も前のその記憶と照らし合わせると、最大の違いは「確認するまでの時間が消えている」でした。カメラ屋とか文具屋とかドンキとかに持っていって何千円か出して「現像したいです」っつって、プリントされた写真を観るのをものすごく楽しみに1週間くらい待っている、あの時間が0になっていました。データかプリントかという話はしません。
そんなんスマホでさんざん撮っていたのでわかりきっていたしデジカメが出た頃にはもうそうだったのですが、何せわたしはまともに「カメラを持つ」という行為が30年ぶりなので、30年前の記憶が蘇ったんです。きっといま「手紙」を書けば、文通相手の返信を待っていたあの時間を思い出すでしょう。
衝動が意味を持つ前に
わたしは編集者として言葉を扱っています。言葉を「意味」から離すのはなかなか難しいものです。本来言葉なんてただの記号であり音符なのですが、普段から明らかな意図を持って説明したり表現するために言葉を使っていてしかも職業にまでなったから、言葉が意味とセットになっちゃってるんです。
それが写真だと、意味になる少し前にシャッターを押せるんですよね。何かが五感に入り込んで、感覚的にカメラを構えて「俺いま何を撮ろうとしてるのかな」とかなんとなく思いながらファインダーを覗く。その結論が出る前にシャッターを押して、目を離すともう「仮固定された完成形の結論」がディスプレイに写っています。この「形になるまでの速さ」が文章と決定的に違います。これもあたりまえだすぎてクラッカーが食べたいです。
意味を探そうとする自分を保留できる。理屈っぽい自分にとって、まず何よりそれが衝撃的にうれしかったんですね。シャッターを押すときには自然と息が止まります。わたしは長らくシャッターを押したかったんだと、意味から距離のある言語がほしかったんだろうと思いました。ほら、言葉を使うとこうやってすぐに意味や理由を探そうとするんです。めんどくさい。
The World is Mine
この「仮固定の完成形」である何の変哲もない写真を見ると、自覚できていなかった「理想」との差が瞬間的に立ち上がります。少なくとも撮り始めた今の段階では、構造的に、「数秒前の自分は何を撮りたかったのか」をあとから知ることになっている。
理想との差とは、端的にいえば「自分は何を美しいと思うのか」とか「自分は世界の何をどう見たがっているのか」という視線や美意識と、現在の力量との差分です。わたしは写真を撮り始めて2週間で、自分の世界の見え方を、大げさにいえば自分が生きている証拠を写真で視覚化することに興味を持ったのだろうという気がしています。
そして翻って、これは言葉を獲得した感覚にも似ていました。さっきは写真と言葉の違いを書きましたが、写真でしか表せないものがあるとすれば写真も一つの言語であって、「日本語を使って自分は世界をどう切り取るか」と日記や作文を書いていた今にもつながる遠い記憶を思い出すのです。
そうだとすればわたしが知っているのは、まずやることは「技術を学ぶ」ことではなく「たくさん読んでたくさん書く」ことです。たくさん観て、たくさん撮り、自分なりのやり方とやる理由をやりながら知ることです。
Title of mine
この記事に挙げた写真は、過去にスマホで撮ったものと、カメラで撮ったものを混在させています。どれがどっちかわかりません。自分はまだ何の技術も身につけていないことがわかります。理想に近づける方法と道筋を知りません。でも、自分が撮った写真だなということはわかります。名前をつけるように。そこから始めるしかない。
感情を言葉に託すために論理を組み立てるように、語彙を身につけたように、レトリックを学んだように、何のために何が必要なのかをゆっくり探しにいこうと今は思っています。
楽しい
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