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生命エネルギーのオーガズム!? 左密の話題

 瞑想する人noteでは「左密」はカルトの狂騒に容易に結びつく性質があり、もちろん公序良俗、倫理道徳の観点からも警戒すべきもであるため外道外法としています。

用語解説:密教、左密、生命エネルギーなど

関連note:性的ヨーガ批判


しかし密教、ヨガ、瞑想、内丹(仙道)などの探究者の中には、困惑とともに真摯な疑問を抱く人がいます。

疑問を抱くのは自然なことだと思われます。

私にも少しも解決できていない疑問があります。現時点での私自身の考えにとって不都合なため、目を背けたいものがあります。


 今回のnoteは、結論があるものというものではありません。
疑問、問題を提示し、かつ、自分自身の後の思索のために疑問をメモしたものです。#思索の備忘・メモ
まともな結論もないのに、ダラダラと書いていたら長文(6000文字超え)になってしまいました。

あと、この記事は読者にどのような影響があるかについて、私は不安・心配があります
どうかおかしな影響がありませんようにと願うばかりです。

生命エネルギーのオーガズム!?

 私はネオ タントラスピリチュアルの妄想にかぶれた戯れであると考えていて、嫌悪感しか抱いていません。

関連note:アパーナ気など生命エネルギーについて >>

しかしこれに特殊な技法が絡むと、問題がややこしくなると感じています。


 特殊な技法というのは、生命エネルギーを利用したオーガズムとでも表現できそうな技法です。
巷では様々な呼び方があり「頭による~」とか「マルチプル~」などといったものなどありますが、有名なのだと「エナジー オーガズム」という名称があります。

率直に言うと、このエナジーオーガズムには密教的な生命エネルギーの体験がともなうことがあると、現時点では私は考えています。

またこの特殊な技法の習得方法はいろいろとあるようですが、中には「性的ヨーガ」に含めてもよいのではないかと思うものもあります。


密教(ハタ・ヨーガなど)との共通点

 この特殊な方法には、リラクゼーションや呼吸法が用いられることが多いです。
これに関して、密教(ハタ・ヨーガ、内丹・仙道、チベット密教)と共通するものがあります。

分かりやすい共通点は適度なリラックスと集中腹式(丹田)呼吸、バンダ、特にムーラバンダです。

関連note:【Mula Bandha】ヨガのバンダ、ムーラバンダについて


これらを用いた実践で体験者によって感覚の個人差がありますが、下腹部、会陰部、丹田から「エナジー」が発生して背骨付近など身体の中を上昇し頭部(のチャクラ)に達するとオーガズムを体験するとされます。


主な体験について

 上で述べた方法でエナジー、生命エネルギーを発生させてオーガズムを体験するわけです。
この特殊な方法の実践者は、これを「性」の文脈で説明して「快楽」と表現することが多いです。

この実践者の中には、スピリチュアルを連想する人もいるようです。
しばしばその説明の中に「タントラ」「ヨガ」「瞑想」「チャクラ」「クンダリーニ」「気、プラーナ、生命エネルギー」と言った言葉が登場します。

神秘的な光を見たり、体外離脱といった体験もあるようです。

また経験を積むに連れて、体験内容も洗練され高度になっていくようです。

私個人的には、確かにこの特殊な方法による体験には、実際にハタ・ヨーガや内丹(仙道)など密教的方法による生命エネルギーの体験に該当する場合があると思われます。

その場合には、大抵は、ヨーガに言う「アパーナ気の逆流・上昇」「中央気道(中央脈管、スシュムナー)の活性、詰まりの浄化」に対応する体験だろうと考えています。


体験者の変化と、さらに強い体験。「歓喜」「至福」「サマーディ」

 この特殊な方法の実践者の中には、その内で多数なのか少数なのか私は分からないのですが、様々な奇妙な変化を体験する人がいます。

たとえば体内の「気(プラーナ)」の流れを感じるようになったなどと奇妙なことを言い出す人もいます。

またさらに強い体験をするようになる人がいます。
その体験談を聞いたり読んだりして、私はこれは「クンダリニーの体験」「サマディ(三昧、サマーディ)」としてもよいのではないかと思ったのもあります。

この実践者の中には瞑想に関心を持ち、実際に長い時間をそれに費やすようになる人がいます。
なぜかというと、瞑想状態だと、この特殊な方法によって下腹部(丹田付近)から上昇する「エナジー」、生命エネルギーの感覚が強まり、オーガズムが安定して深まるとされるからです。

瞑想によってエナジーの感覚が強まり、そのエナジーの作用によって、オーガズムがさらに安定して深まり、その強烈なオーガズムによって意識が満たされ、思考が停止し、ますます瞑想に没頭するようになることがあるようです。

そのまま瞑想を続けていくと、今度はその強烈なオーガズム、「歓喜」「至福」すらも超えていき、純粋な意識状態、瞑想状態に没入することがあるようです。


参考文献:天武 五十鈴  著 『エナジーオーガズム考察録: クンダリニーと無限の快楽の秘密』


密教の説明

上で述べた実践者の体験は実に密教的な体験だと思われます。
私はこれは生命エネルギーによる「歓喜」や「至福」の体験、「サマディ」と言ってもよいのではと思いました。

チベット仏教(密教)の大楽思想楽空無差別に通じるような体験だとも感じました。

 “ そして、もう一つ、八世紀以降の密教、というよりもその母胎であった大乗仏教が、理論面からも、性的ヨーガが解脱のためには不可欠という結論に達した理由を、あげておこう。
 大乗仏教にとって最も重要なコンセプトは、「空性」である。その「空性」を性の快楽として把握する見解が登場したのだ。それを「大楽思想」という。”

ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『増補 チベット密教』筑摩書房 2008 p.35

(”「空性」を性の快楽として把握する“というのは誤解のある表現だと思いますが、、。)

“(楽空無差別とは)大乗仏教にとって究極の真理である「空性」を至上至高の「快楽」として体得すること。「楽空無別」ともいう。”

ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『チベット密教 図説マンダラ瞑想法 』 ビイング・ネット・プレス 2003 p.149


 生命エネルギーによる「歓喜(至福)」や「サマディ」の体験については、ハタ・ヨーガやチベット密教では様々な説明があるのですが、、とりあえずは、生命エネルギーが中央気道(スシュムナーなど)に流入すると歓喜を体験して、頭部のチャクラに流入したりクンダリニーが上昇するとサマディを体験するというようなものが多いです。

“......ゲルク派による最も簡単な究竟次第の定義は「風(ルン)を、鼻孔に通ずる左右の脈管(左=ララナー=キャンマ・右=ラサナー=ロマ)から、性器から頭頂まで脊椎の内側に沿って身体の中央を貫く中央脈管(アヴァドゥーティ=ウマ)に、観想の力によって導き入れ、とどめ、溶融させて、成仏を可能にする状態を創出すること」である。”

ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『増補 チベット密教』筑摩書房 2008 p.142

“ ......尊者ミラレパがこう仰せられている。

ロマとキャンマの中の生命エネルギーが
アヴァドゥーティに入ってくると
歓喜を体験する

ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『チベット密教 図説マンダラ瞑想法 』ビイング・ネット・プレス , 2003 ,
「密教瞑想法・実戦編3」章の「ナーローの六法」より pp.247-248

Wikipedia:ミラレパ

関連note:瞑想と「タマス」、太陽と月の気道


ハタ・ヨーガ・プラディーピカ』 第3章  ムドラー

” 山や林のある大地のすべてを支えているものが蛇の主神アナンタであるように、すべてのヨーガ行法を維持しているものはクンダリーである。

 グルのめぐみによって、眠っていたクンダリーが目覚めた時、その時にこそすべての蓮華と結節とは突き破られる。

 すると、障害物のなくなったスシュムナーはプラーナ(生気)にとって、通行に便利な王道(大道)になる。その時、チッタ(意識、心王)はその対象から解放され、時間(死)からの超越に成功する。”


“ コーモンを収縮してウディーヤナをなし、イダーとピンガラの両道をとじて、気をスシュムナー気道へみちびく。

 この方法によって、気はラヤ状態に達する(ブラフマ・ランドラのうちに入って動かなくなる)。その時には死も老も病も起きない。”

佐保田鶴治 『ヨーガ根本教典』平河出版社

関連note:ムドラーとプラーナヤーマ


エナジー オーガズムの実践者の中には、まさにこういった生命エネルギーの体験をしている人もいるのではないかと感じます。

ちなみにですが、瞑想の伝統の中には、生命エネルギーによるサマディは質が悪い、ニセモノだと批判する人もいます。
例えば「生命エネルギーによるサマディは、中央気道に流入し上昇したプラーナが、脳の働きをノックアウトして生じた麻痺状態だ」といったような批判です


不都合な点

「エナジー オーガズムによって高度な生命エネルギーの体験や瞑想体験をするようになることがあり得る」という考えを不都合に思い抵抗感を感じ、困惑する人達がいると思われます。

精神性を重視して真面目にヨーガ、瞑想、呼吸法に取り組む人達です。正直、私も困惑しています。
精神性を重視して、ヨガのヤマ・ニヤマや仏教の思想、戒律なども参考にして、それなりの期間、呼吸法や瞑想に取り組むというのが、本来のやり方だと考える人が多いわけです。

この瞑想するnoteにおいても「内なる意識」「霊性」を重視すべきとしています。


しかしエナジー オーガズムといった特殊な方法の実践者はどうでしょうか?そんなものはお構いなしに見えます。

この特殊な方法では、エナジーを生じさせるために、ポルノを視聴し成人指定のグッズ販売ショップで手に入るような道具を使用する人もいます。
(慣れてくるともっと「清潔」な方法に移行することがあるようです)

もともとが宗教やスピリチュアルではなくて、性の快楽の追求が主目的なので、精神性を重視した修養もお構いなしだったりします。
この方法でそれなりの生命エネルギーや瞑想の体験をして、真面目に瞑想や精神修養をする人達がうらやむような意識体験をするようになった後も、依然として快楽追究が主目的なのは変わらなかったりします。

八正道や六波羅密、戒定慧の実践、徳(善行)の集積も知ったこっちゃありません。

それでヨーガなど精神的伝統で言われるような「徳が漏れる」とか「魔境」とか「低級なアストラル界、幽界につながってしまう」といったことが頻繁に起こっているかというと、そんなこともなさそうです。

さらにこの特殊な方法で、比較的短期に、それなりの生命エネルギーの体験や瞑想体験に該当するような段階に至る人もいるようです。


 宗教的な修行を受け入れ、神を信仰するなどして心身ともに清廉な生活や善行を心がけ、加えて生命エネルギーを転換・昇華して中央気道に導き入れ上昇させるために下位チャクラやそれに対応する欲望や心の働き、情動を制御して、瞑想や呼吸法を実践する人達にとっては「いったいどうなってんだ?」と困惑するものなわけです。

高い精神的境地なるものを求め真面目に実践する人達の信念、信仰にとって、まことに不都合、不愉快なものです。

長期間真面目に実践しても、生命エネルギーの体験にちっとも恵まれない人もいます。


疑問

後期密教における性的ヨーガの評価

エナジー オーガズムのような特殊な方法で生命エネルギーの体験や瞑想体験が深まることがあるというのは、性的ヨーガが無上ヨーガタントラ(チベット密教、後期密教)で高く評価された理由にも関係しているのでしょうか?

またこの特殊な方法では、生身の人間の相手(パートナー)は必要ないので、チベット密教や内丹・仙道の性的ヨーガ(左密)でも、必要ないとしてもいいのかもしれません。
人体、意識ー神経生理において性的な活動力さえ生じれば良いのかもしれません。


性エネルギーの転換

 ヨーガ的な表現を用いて言うと、性エネルギーが性欲、性的衝動を直接意味するとした場合、そのままでは中央気道を通らないです。
なので「性エネルギーを転換する」(「アパーナ気を逆流させる」)といったことが性的ヨーガ(左密)でもなされます。
(ちなみに性エネルギーの転換点はスワディシュターナ・チャクラであると私は考えています)

性の快楽追求を目的とするエナジー オーガズムといった特殊な方法でも、これに該当することは行われているハズです。それをどのように評価すべきでしょうか?

関連note:チャクラについて。瞑想する人のチャクラ論


体験の比較。精神的価値に対する懐疑

 さらに、「堕落した」ようにも見える この特殊な方法による意識の体験と、清廉な信仰や心の成熟が重視される精神修養がともなった長期に渡る真面目な実践による意識の体験が同じものである場合はあるのでしょうか?
もし同じものである場合には、どういう考えが生じるでしょうか?

 この特殊な方法での体験が進んだ人が、快楽の追求といったそれまでの態度を改め、宗教やスピリチュアルの精神性を受け入れたら、すぐさま宗教的な境地を得た人になるのでしょうか?

 真面目な実践によって得られる体験や、それによって得られる理解(宗教的・精神的な知識、智慧)といったものの価値に対して懐疑を抱くようになる人もいるのではないでしょうか?
つまりその価値の毀損につながることもあるのではないかということです。

「真面目な実践による意識体験が、肉欲快楽の追究の方法によっても安易に得られるものならば、そもそもその意識体験には深い精神的な価値などあるものか?
さらに、その意識体験によって導かれ得られる智慧とやらも、いったい自己満足以外の何物であるのか?」
、、、、ということです。

このことは、ひょっとすると後期密教(チベット密教)の性的ヨーガの孕む問題にも関係するかもしれません。

他の比較的安易な方法でも深い意識体験をすることの問題については、サイケデリクスにも関わることかもしれません。

関連note:神秘体験、サイケデリクスに対する懸念


基礎的な考え

体験の生物学的な根拠

生命エネルギーの体験といったことが生じるのは、人体にはそのための生物学的な基盤・メカニズムが存在することを示唆します。

このnoteにおいては、生命エネルギーの体験の人体における重要な起源の一つが、性・生殖に関する神経生理システムだと主張しています。

これに関係するであろう、神経学者による考察は、あるにはあります。

“ それでは、超越体験のための神経学的機構は、どんな機構に由来しているのだろうか?われわれは、それは、交尾やセックスに関する神経回路から進化してきたと考えている。”

“ 何よりも、神秘家たちがみずからの体験を表現するために選んだ「至福」「恍惚」「エクスタシー」「高揚」などの言葉が、この起源を暗示している。「この上ない一体感に我を忘れた」……などという彼らの証言が、性的な快感を表現する言葉でもあることは、偶然の一致ではないし、意外でもない。
なぜなら、超越体験に関与する興奮系、抑制系、大脳辺縁系などの神経学的構造や経路は、基本的に、性的な絶頂と強烈なオルガスムの感覚とを結びつけるために進化してきたものであるからだ。”

アンドリュー ニューバーグ 、ユージーン ダギリ 他著 茂木健一郎 監訳 『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 PHP 2003  p.186

人体には性的ヨーガやエナジー オーガズムによって、生命エネルギーの体験や超越的な意識体験をする生物学的な根拠があると考えられます。


体験の評価の難しさ

体験の生物学的な根拠については、まだまだ分からないことも多いのでしょうが、しかし、神経生理上のことなので科学的な研究の対象になり得るものだと考えられます。
この点では「客観的なもの」とすることができます。


しかし意識体験の評価については、「主観的なもの」であり、難しさがあります。

「空、縁起、無我」「梵我一如」「神、宇宙との合一」「ワンネス」「真我独存」などといった宗教的なものが真理であると、客観的に証明することが今のところはできていません。
(この中で「空、縁起、無我」に関しては、これを悟るというのが、宗教的なものではなくて、心理学的、認知療法的なものとするならば話が違ってきますが。)

また「人体に超越的な深い意識体験をする生物学的メカニズムが存在するのは、そもそも人間というのは物質性を超えた霊的な存在だからだ」というのも今のところは証明できていません。


なので超越的な意識体験をしたとしても脳の誤作動などとして片付けることもできるでしょう。
「麻酔薬でも神秘的な深い意識体験の報告がある。脳の誤作動でそういった体験があるんだ。その体験で見たものが真実だとする根拠なんてあるのか?」というわけです。

意識体験に明確な評価を与えるのが難しいです。

こちらも👉 唯物還元論、ニヒリズムについて