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小男の森 或いは宿命について

 朝早く、私は森へ茸取りに出かけた。手にした大振りの籠は母が少女の頃から使っていたものだ。程良くこなれたうえに艶がある。
出がけに母は、その籠がいっぱいになるまで茸を取ってくるよう、私に言いつけた。
 普通なら秋の茸狩りは大人も子供も総出で行う。しかし間の悪いことに、父は何かの用事で街へ出かけていたし、母は具合を悪くして寝込んでいた。結局私が一人で出かけなければならなくなった。
 私はなだらかな丘のくだり坂を幾分急ぎ足で降りて、森を目指した。
 
 森へ分け入ると、ひんやりとした空気がたちまち私を取り囲んだ。秋とはいえ、まだまだ木々の葉は落ちきらず、十分に日射しを遮っている。茸にとってはそれが格好の環境なのだ。この森は幾多にも及ぶ種類のおいしい茸がたくさん捕れる。
 歩きながら、手にした木ぎれでもって足元の葉を除けると、笠を広げた茸がひょっくり顔を覗かせる。腰を屈めてそれをもぐ時、ほのかな滋養分の香りが土のにおいと混ざり合って鼻を突いた。
 穫りたての茸はなめらかで、柔らかいと同時に張りがあり、なんともみずみずしいものだ。様々な匂いが入り交じりった茸の香りは、まさに森そのものだった。
 私は食べられるものを的確に見分けながら、少しずつ籠を満たしていった。
 
 収穫した茸が籠の半分ほどに達した頃、私は疲労を感じはじめた。一休みを入れなければ、と座るにたやすそうな岩や切り株を次々と目で追った。
 その時私はすでに、森のかなり奥まで入りこんでしまっていた。この先の茸取りは帰り道を辿りながら、ということになりそうだ。その前に母が持たせた昼御飯を食べてしまわないとならないだろう。
 と、思ううちにも私は、座り心地の良さそうな切り株を見つけ出していた。私はエプロンの大きなポケットにあるはずの昼御飯を片手で探りながら、早速その切り株へと足を運んだ。
 
 脇に籠を置いて固パンにかじりつくうち、いつしか目の前を奇妙な影が佇んでいた。私は胸の鼓動が停止しそうなほど驚いて、のけぞるように顔をあげた。すると、ごく幼い子供ぐらいの背丈しかない、しかし顔中皺だらけの不思議極まりない男が視野の真ん中で笑った。
私は怖れおののくあまり、危うく手から固パンを落としてしまうところだった。
 男は私が仰天しているのがどうしてなのか、百も承知だと言わんばかりに、にやにや笑いを深めた。しばらく楽しんだのか少し間を置いたあと、妙に耳障りなきんきん声で私に話しかけてきた。
「俺があんまり小さいんで、びっくりしたんだろう?子供かと思いきや、老人のような顔だからな。そりゃ驚くのも仕方あるまいさ」
 私は返事に窮してしまい、思わず手の中の固パンを見つめた。するとそれを見てとったらしい男はなおも続けた。
「なあ、怖がらなくてもいいから、そのパンをちょっと分けてくれないか? その代わり、特別に美味い茸を食べさせてやるから。それに、俺の作った酒もあるんだ、ほら」
 言いながら男は、腰にぶら下げた壺を指さした。
 
 異様な風体に見慣れてしまえば、どうも悪い人間でもなさそうだった。私は少し思案してから、固パンを半分ほど割って手渡した。男はそれを飛び跳ねるような仕草で受け取ると、私の隣に腰を下ろした。
「さて、じゃあ、お礼にこれだ。お前にやろうじゃないか。俺の自慢の茸漬けだ。酒だって俺の手作りなんだ」
 私は困った顔をして見せてから、酒が呑めない旨を告げた。すると男は口を大きく開けて高らかに笑いながら、「そんなはずはないだろう」と、なおも私に酒をすすめるのだった。
 しつこい勧めに閉口しつつも、酒そのものに対する興味と喉の渇きがつい、私を優柔不断にした。飲み物を家に置き忘れたまま出てしまっていたのだ。
 一口だけでも、と、私は恐る恐る口に含んでみた。それはこれまで飲んだことも無いような甘い香りのする飲み物だった。
「美味しい!ジュースみたいね、これ」
 私は思わず叫んで、もう一口、もう一口と壺を傾けた。男は自慢げな笑みを浮かべながら、満足そうに頷いた。
 
 しばらくすると、私はすっかりいい気持ちになって、楽しい気分で満たされた。
「やっぱり血は争えないな」
 
 与えられたパンを食べ尽くし、自前の茸漬けを次々と口へ放り込んでいた男が、不意に手を止めて私につぶやいた。見ると、その顔にいわくありげな微笑を浮かべている。私はたちまち、男に不快を感じ始めた。
「それ、なんの話?何が言いたいの?」
 私は自分でも意外なほどつっけんどんな口調で言った。すると男はそれがさも可笑しくて仕方がないらしく、必死に笑いをかみ殺しながら私を見たのだった。
 
「お前の一家はアル中だろう?俺は知っているんだぜ、お前の家族もいとこもはとこも、叔父伯母もじいさんばあさんも、みいんなそうだろう?今朝早くお前の父親は街へ出かけていったが、お前はそれが仕事なんかじゃないことを本当は知っているんだろう?お前の母親が、どうして今日寝込んでいるのか、その本当の理由だって、お前は知ってるはずだ」
 男はひとたびそこで口を閉ざしたが、次の瞬間にはずるそうな目で、私を試すかのように覗き込んでいた。
 酒で気が大きくなったのか、私は黙ってその目を睨み返した。
 だが男は気にも留めないそぶりで、再び口を開いた。
「で、お前はそのアル中一家の一員だというのが恥ずかしくてならないらしいな。特に母親のことが憎くて仕方がないんじゃないのか」
 私の身体を鋭い怒りが貫いた。私は勢いをつけて立ち上がると、男を見下ろして叫んだ。
「いい加減なこと言わないでちょうだいな。いったい誰がお母さんを憎んでいるだなんて言ったの?それに、あたしの家族はアル中なんかじゃないわ」
 男はさも意外なことを耳にしたと言わんばかりに、まん丸の目をして見せて、口をすぼめた。どんぐりを二つ並べたようなその焦げ茶の瞳が、私をますますいらだたせた。
 
 実を言うと私は、その男に何もかも見抜かれてしまったような気がしていた。私の家族は誰もが酒好きで、特に母など、ほとんど酒なしにはいられないのだった。
 私は母のたるみきった瞼や濁った瞳、鞠のように突き出た腹を見る度に、こうはなるまいと思い続けてきたのだ。その事は一人、自分の胸の中だけにしまい込んで、誰にも告げずにきたはずだった。ところが偶然のうちに森の奥で出逢った見知らぬ小男が、ずばりとその秘め事を言ってのけた。私は狼狽すべくして狼狽したに過ぎなかったのだ。
 しかしよく考えてみると、初めて出逢った男がそんなことを知るはずもなかった。「ありえないことだ」と、己に筋を押し通せば、それで済んでしまうことでもあった。
 そこまで考え到った私は、辛うじて気を取り直すことができた。
 私はでき得る限り、にこやかに笑顔を作りながら男に言った。
「ねえ、誰かと勘違いしているんだわ。きっとあたしによく似た誰かと間違えているのよ」
 男は相も変わらぬまっすぐなどんぐり眼で私の顔を覗き込みながら、さも不思議そうに首を振った。
 
「いいや、そんなことはありえないんだ。だって俺はお前ら一族にしか会うことができないようになっているんだからな。お前の母親のことだって、よく憶えているぞ。左の頬に、お前と同じようなほくろがあるだろう。髪の色も瞳の色も一緒だったな。それから父親の方は・・・」
「もう、いいわ!!」
 私は切り裂くように叫んだ。やはり酒など呑むものではなかった、と、後悔した。酒など飲んでいなければ、こんなふうに頭に来ることも叫び出すようなことも、きっとなかっただろうに。
 私は自分の動揺を、すべて小男から貰って呑んだ酒のせいにした。
 
 そんな私を見てか、男はにわかに同情的な目つきになった。
「まあ、しかたあるまいさ。お前の母親もそうやっていきり立ったものさ。こうしてお前が俺と出逢うことも、この酒を呑むことも、ずっとずっと大昔から決まっていたことなんだ。ついでに言っちまえば、お前が母親そっくりになることもな」
 私は頭の芯が冷たくなっていくのを感じた。その時私はよほど恐ろしげな表情を浮かべたのだろう。男は怯えたような、しかしどこかわざとらしい表情で、飛び跳ねるように私から離れた。
「俺を恨むのはお門違いだぜ。もっとも恨んだところで、何がどうなるって言うんでもないけどな」
 そう言い残すと、瞬く間に木々の影に紛れ込んで姿を消した。
 
 その男がいることで神経がいらだって仕方がなかったというのに、いざ姿が見えなくなると、私は何故か無性に不安を覚えるのだった。だからといってあのおかしな男に戻ってきて欲しいわけでもなかった。いや、むしろ二度と会いたくないとさえ思った。
 私は気を取り直して、切り株の脇に置いた籠を持ち上げた。母が少女の頃から使っていたという、その籠を背負った瞬間、私は途方もない重苦しさを感じた。
 何が理由でそんな気分になるのか、まるで解らなかった。あの男は確かに不愉快極まりなかったが、どうやらそれとはまったく別のところで、私は言いようのない重苦しさを感じていたらしい。それは手にしているはずの物を、懸命に探しているときの感覚に似ていた。すでに解りすぎるくらいに解っているはずの事柄を、どういうわけかまったく見失ってしまうのだ。
 
 私はため息をひとつついてから、来た道を戻るべく歩き出した。籠はまだ半分しか埋まっていなかった。この状態のまま家に帰れば、空きのたっぷりとある籠を目にした母親が、私をこっぴどくしかりつけるであろう事は明らかだった。
 母が質の悪い酒を呑んでいないよう、私は心から祈りつつ森を歩いた。しかしそれはけして叶えられない願いなのだった。祈っている私自身が誰よりもその事を深く理解していた。
 
 軽やかな足取りなど、すっかりどこかへ消え去っていた。私は果てしなく重さを増し続ける両の足を交互に踏ん張っては、木ぎれで積み重なる葉を追い払い、茸を見い出す度ごとに腰を折った。
 やっとこ籠をいっぱいにし終えたとみるや、すでに辺りは黄昏だった。私は森で出逢った小男のことなどすっかり忘れ去っていた。唯々疲れ切って、疲労がそもそも私自身であるかのようだった。
 
 森を出てなだらかな丘の小道を辿るうち、東の空に星が瞬きはじめた。やがて角度を増した白い満月は、小道に沿う木々の影を黒々と描くに違いない。
 私は長いこと左右に揺れ続ける、いまだ輪郭のはっきりしない自分の影を眺めていた。いよいよ家が近づいたとき、私はいったん足を止めた。
 私の行く手には、明かりの漏れる一軒家がひっそりと佇んでいた。私は何を想うでもなくその佇まいを眺めたあと、自分の影に視線を戻して、また、ゆっくりと歩き始めた。

※この作品はフィクションです。(初出 1998年)
 

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