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暮らしの風景

母が『暮らしの手帖』という雑誌を愛読していたせいかわならないけれど

ごく早いうちから日常というもの

何の変哲もない日々というものに心が向くようになっていた。

幼いながら日記を書きだしたのも

チェーホフの短編が好きになったのも

もしかしたら、繋がっているのかもしれない。

ありふれていること 平凡なこと 昨日と同じ今日

退屈なため息とともにこれらの言葉が発されたのは

日本が経済でのしあがり、ひいてはアブクだらけになっていく

その道すがらのことだった。

それは、浮草になることをみずから望むあり方ではなかったか。

浮草は根無草とも言われるように、根を持たない。

浮いて浮いて 浮ついているだけに、風が吹いたら流される。

根っこは目に見えないから、一見、根無草かそうでないかはわからない。

誤魔化しに長けていくことは

みずから首を絞めることになると

どれだけの人が気づいていただろう。

もし今、何らかのひずみがきているとしたら

根っこを育てていたかどうか、立ち返ってみると良いと思う。

根っこは見えない。

見えないからこそ大事…という発想、考えではなく

大事なものはすべて肉眼でとらえることはできない

という心の眼を持ち、育んでゆく。

育んでいく日常を自分のものにできたなら、それはその人の芯になる。


強さは暮らしの中でこそ備わっていく。

常に暮らしをととのえていれば

動揺したところで

たかがしれている、と、思える

自分になっていく。

みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。