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明治女に学ぶ美しい人生のたしなみ*第九回 何もかも天に任せる、この心構えがあるから日々清々しく暮らせます

梨本伊都子
明治一五(一八八二)年、旧鍋島藩の最後の藩主・直大の次女としてイタリア・ローマで生まれる。一八歳で元皇族・梨本宮守正王と成婚、明治・大正・昭和の各天皇とも親交。戦後は臣籍降下のため一市民として守正の未亡人恩給を受けつつ生活した。和歌のほか明治三二年から没年まで日記をつけており、後続の素顔を伝える貴重な資料となっている。昭和五一(一九七六)年、九四歳で逝去。

華麗なる一族にうまれて

 梨本伊都子が生を受けたのは、日本が極端な欧化をたどった鹿鳴館時代のことでした。そのためか若き日の伊都この写真は、いずれもドレス姿ばかりです。もっとも、そればかりではありません。旧鍋島藩主だった父は駐イタリア特命全権公使で、伊都子もイタリアで生まれだったのです。伊(イタリア)の都・ローマで生まれた子、それで「伊都子」と名付けられました。

 大名家から皇族へと嫁いだ伊都子は、いわば別世界の女性です。東京都内には清泉女子大学本館(旧島津公爵邸)や旧前田家本邸(目黒)など大名華族の瀟洒な邸が遺されていますが、伊都子もこのような環境で育ちました。

とはいえ、わがまま放題というわけでもないのです。鍋島家の家訓には「子供には贅沢をさせるな」とあり、例えば華族女学校に通うのも同級生が人力車で追い越していく中を、伊都子はお供と徒歩でした。また、「自分のことは何でも自分でしなければならない」との躾ゆえ掃除や洗濯も厳しく指導されたといいます。実は、こうした躾は大名家や士族には珍しくなく、欧化主義に傾いていても受け継がれた武家のあり方を守っていたのでした。

 やがて十八歳で梨本宮守正に嫁いだ伊都子は、戸惑いながらも皇妃の役割を懸命に務めようとします。

宮様に嫁ぐ際、母からは「辛抱が第一です」と諭されました。それでも「時にはさすがにムッとするのでした。大名と違います・・・ときつい顔でいわれると憎らしくなってくるのです」(『三代の天皇と私』講談社)。

住む世界が違っても、人の心というのはさして変わらぬものなのでしょう。伊都子の素直な心情を知ると、むしろホッとするような気がします。

大転落と老いの日々

 しかし天は「華麗なる一族」そのものの伊都子に、過酷な運命を下しました。戦後の占領政策の一環で昭和二二年に臣籍降下となり一般民間人として生きることになったのです。しかも夫の守正は皇族でただ一人、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置。約半年で不起訴・釈放となりはしましたが、その後の暮らしは以前と比べるべくもありません。その頃、伊都子が詠んだ和歌です。

 ちりもなき雲の上よりくだりきて 広野に今はたどりける哉

 守正は七二歳、不機嫌な日々が増えていきます。伊都子にしても六五歳です。伊都子の日記には「宮様が気むずかしくて困る」と繰り返し綴られるようになりました。

「どうして、そう角々しくおっしゃるの。何にも言う事もできない。そんなにうるさければ、私がいない方がよいでしょう。カーッとなってしまった。年をとってから色々の目に遭うから、御気もくしゃくしゃするのであろうが、私にばかりあたりちらさなくても、私の方が、まだまだ悔しいことや、何やかや山のようにあるのを、じっとこらえているのに、その上、毎日毎日やかましくいわれては、とてもやりきれない」(『梨本宮伊都子妃の日記』小田部雄次 小学館文庫)。時には「早く死にたい」「この世の中に、もう何も楽しみはない」とさえあります。

 この先はいかになるかと思うとき ただ淋しさにむねをいたむる 

 必死に飲み込んだ言葉を、伊都子は日記や和歌にしたためたのでしょう。そうすることで我が身を救い、夫への怒りをも鎮め得たのではないでしょうか。昭和二五年の大晦日。守正は「いい所だ」と三度つぶやいた後、除夜の鐘に送られるようにして静かに息を引き取りました。そして二六年の日が昇ったのです。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印されたのは、この年の九月のことでした。

人生に折り合いをつける術

 やがて日本は経済大国への道をひた走り、何もかもが急変していきました。一人になった伊都子のもとへは「何々会の会長になってほしい」「名前だけでもいいから総裁になってほしい」としきりに声がかかります。それを断固として断るのでした。

「私は鰹節にはなりたくない」

 自分をだしに使うのはやめてほしいということです。それでも勝手に名前を使われることが多々あるのでした。
 そんな時、伊都子の心に浮かぶのは母の「辛抱が第一」との教えです。晩年、伊都子は、「どんな時もくよくよせず、これが自分に与えられた運命と諦め、じっと堪えた」「なにごとも忍耐が肝心」「辛抱さえしていれば必ずどうにかなるものだ」と述べています。

 また、「自分のことは自分でする」というしつけも生きていたようです。老いの日々を、「身の回りのことは自分でやり、人をわずらわせない」「食事は好き嫌いなく質素に、腹八分目、間食はしない」「朝起きると冷水で全身を拭く」「冷暖房に頼りすぎない」「よく歩く」「暇な時は好きな縫い物をしたり片付けをする」「夜は入浴後しばらくテレビを見て夜十時過ぎには床に入る」などなど規則正しく生活をしています。

 もはや何もかも自然に任せ、天命がつきたら夫ののもとに逝く。 この心構えがあるから、日々を清々しく楽しく暮らせるのだと伊都子はいいます。
 そして、死ぬまで和歌を作り、日記を書き続けることを自分との約束にしました。伊都子にとって筆を持つことは自分を見つめる静謐な時間だったのでしょう。そうして様々な想いを整理し、心を浄化し、人生に折り合いをつけたのかもしれません。
 伊都子の日記は世を去る約二ヶ月前まで続きました。

「朝七時おきたが、わりにいい気持ち。朝食はおいしくたべた。これでだんだん回復するだろう。足はまだよろよろする」(同)

 窓から射す清らかな光に包まれた穏やかな伊都子の姿が目に浮かびます。この記録を最後に、伊都子は激動の生涯を閉じたのでした。

(初出 月刊『清流』2019年9月号 加筆・2022年9月25日)
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