#009 「死」の認知

認知症の人はどこまで認知しているのか。こんなことを考えたことがある人は、おそらく当事者家族か当事者に深く関わる機会がある人くらいではないだろうか。

祖母は日に日に弱くなっていく。体も心も。そして彼女は自分が弱くなってきているのを認知している。もう生きたくない、早く死にたいと口にすることも多くなってきた。

最近は1日の大半を眠って過ごす。

祖母の体重は30kgを切った。しかし、母の意向でチューブでの経鼻栄養補給は断っている。

「嫌がるものを無理にさせたくない。最期まで人間らしく、自然の摂理のまま過ごさせてあげたい」

わたしはいま自分が思うことを言ってもいいかと母に尋ねた。

「その日が来たら冷静でいられるかわからないけれど、いまは大丈夫よ」

「おばあちゃんの命がさ、だんだん小さくなっていっているのがわかるよね。ろうそくのさ、芯が細くなって炎が小さくなるように、おばあちゃんの命の灯が少しずつ、でも確実に小さくなっていくのがわかる。消えないように両手で守ろうとしても、もう少しで消えるんだなって心のどこかでそう思ってしまうよね」

「そうね。もう十分だよ、って言ってあげたい」

祖母は病院ではなく、施設にいる。わたしたちが彼女が旅立つその瞬間に一緒にいられるかどうかわからない。その日が明日なのか、それとも3か月後なのか。誰にもわからない。日々暮らす中で、”その日”が頭をよぎらない日はない。だが、”その日”はわたしたちの心を不安にさせるものではない。

わたしたちは、ゆっくりと覚悟を積み重ねてきたし、これからも積み重ねていくのだ。

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