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おっさんミニ情報8 知らぬ間にちいかわ世界 文京区護国寺とおっさんとの御縁

 おっさんが興味深いと思った事象、あるいはコアな情報を提供するおっさんミニ情報。今回は文京区の有名寺院「護国寺」について紹介する。

<大本山護国寺>


 1681年に建立され、本堂は重要文化財となっている。340年以上の歴史を持つが、江戸時代を過ぎると幕府の後ろ盾を無くし、存続の危機もあったようだ。
 ご本尊は絶対秘仏の如意輪観音。非常にかみ砕いて言えば現世利益の観音様で、なるほど、徳川家が祈願寺としての役割を求めたのもうなづける。大本山と銘されており、真言宗豊山派にとって重要なお寺でもある。新人の僧侶を何人も受け入れているようにも見受けられ、筑波山の有名な大御堂(おおみどう)とも縁が深い。

 非常に大雑把な感想だが、本格的なお寺である。そう評するのは
① 地域の人たちはたくさん来るが、観光客でごった返すような俗っぽい感じではない
② 早朝に読経を行い、檀家の他、通う意思のある方であれば、信徒として読経の場に受け入れてもらえる可能性がある
③ 広々としており、五重塔や屋外の大きな仏像、庭木や建築物など、多くのお寺にもあるものは全部見て学ぶことができる。

<日大豊山のお隣>


 日本大学豊山中学校・高等学校は聞いたことがあるだろうか。実は本校、すぐお隣にある。中学受験、高校受験が活発化してきた世代には、入学候補校として耳馴染みがあるかもしれないが、日本大学付属の男子校である。
 この豊山の意味。おっさんが中高生の頃はまったくピンと来なかったのだが「真言宗豊山派」の豊山である。
 明治期に護国寺が併設した「宗学林」という学校が基になっており、これは巣鴨で有名な仏教系大学「大正大学」の前身となり、現地は市立の学校として残り、後に日本大学に移設されて硬派な男子校になっていった。

<周辺の町>


 山門の前の大通りには、コンビニやファミレスがあるのだが、なんと24時間ではない。詳しくは知らないが、どうやらお寺タイムを配慮しての営業時間のように見受けられる。あくまで肌感覚だが坂や植栽も周囲に多く、ごく小規模であるが宗教の町なのだなと思わせる何かがある。

<信徒の受け入れの間口が広い>


 日曜日には修養会が開かれており、参加は自由。読経の後にお坊さんの説法がある。おっさんもいくつかのお寺で説法を聞いてきたが、こちらでの説法は案外親しみやすい。

 大概の説法はお経や古典に基づいた内容であるのだが、こちらではお坊さんが実際に体験した「占い」の話など、庶民感覚、現代感覚に近いように思う。
 無論、仏教の話として人間同士の関係や心の在り様について大事にすべき事を述べるという点では、確かに説法ではある。良し悪しで言うと、良とハッキリ申し上げたい。

 また、繰り返すが読経を体験できる可能性もある。
 紹介者が必要であったりとハードルは高いのだが、僧籍を得ずとも貴重な体験ができるようにも思う。

<ちいかわの御朱印やってる!?>


なんと、話題の「ちいかわ」とのコラボレーションも行っていた。


 御朱印帳に期間限定でちいかわの印を押してもらえるそうだ。
 講談社が近くにあるから実現したらしいとの話があるが、それにしても寛容なお寺さんである。最近は、本尊を載せたドローンを飛ばすといった奇妙な寺や、夜中にライトアップするハイカラなお寺もあるようだが、ここ護国寺も、今回の例のように、新しい時代にどんどん対応して、生き残っていけるように思えた。

<その他>


 おっさんは以前、幸運にも読経のツテを得て通っていたのだが、縁が切れてしまった。おっさんは「人は自分はこの時代をどう幸せに生きるか」を模索し、様々な分野を追求してきた。
 その一手段として、宗教家としての影響力の獲得も考えたのだが、護国寺を皮切りに色々とやってみたがどうにもご縁が遠くなるばかりであった。

 一方でその模索を断念した後、noteによる発信方法を決意するに至ったわけで、全ては地続きの出来事でもある。noteによる体験の発信は、門前の小僧としての読経よりも、実際的であるのは確かだと思うし、僧侶になるよりは自由度も高く話が早い。またそもそも、仏教はとある小説家・文芸家の影響でもあったので、文筆によるアプローチはある意味原点回帰でもある。

 グダグダ書いたが、とにかくこのお寺でのご縁もまた、歯車の一つであったのは確かだ。

 初期の投稿で触れた、信仰や神仏の話でも述べたが、おっさんは神仏は定義できず、信仰とは生き方であると思っている。
 
 一時期読経にいそしんだり、宗教家を模索したという時期を経ても、その考え方が変わることはなかった。

 一方で彷徨った先で出会った宗教組織に近しい方々は、見て話して体験して、ある意味もっと素朴な信仰を出発点とするように感じられた。おっさんとは存在する位相が少々ずれているようだ。
 無論たまたまそんな切り口であったことも事実であるが、結局は宗教家になると自分自身を維持できない(目的を達成するには客観的立場であったほうがよい)と、一旦は結論し、現在に至っている。

 とはいえ、守りたい存在でもあり、好ましいと感じる存在ではある。

 そんな人生彷徨う中で、今後も護国寺は、折に触れて思い出す地になりそうではある。

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