第3回  野ウサギを狩るワイルドな愛猫に導かれて自分の硬直した暴力観ゆえの誤訳に気づいた夏の日のこと

マーク・ボイルの『モロトフ・カクテルをガンディーと』(ころから)の翻訳者、吉田奈緒子さんが翻訳に取り組む過程での気づきや思いを綴ります。同時進行的に連載されていた紀伊國屋書店『scripta』からの転載を期間限定でお楽しみください。
なお、タイトルは連載時から書店員でライターの花田菜々子さんリスペクト風に変更されています。

◉ソバ、ウサギを狩る
「すごいなぁ、ソバがウサギをとってきた!」
日が暮れて帰宅した夫が、玄関の網戸のむこうで感嘆の声をあげている。
えー、ウサギ? 巨大なネズミじゃないの? どれどれ、とサンダルをつっかけて飛びだしたとたん、「あーそこそこ、踏まないで」との制止が。
 目が暗さに慣れるにつれ、ぼんやり様子が見えてきた。あやうく踏んづけるところだった愛猫ソバは、全身まっ黒で夜陰にまぎれやすい。4年ほど前からわが家の庭に住んでいる。
 そのむこうに「く」の字に横たわっているのは、たしかにノウサギだ。ピーターラビット似の茶色い毛皮に、つぶらな瞳が愛くるしい。農作物被害の話は(イノシシの比ではないにしろ)たまに聞くが、実際に姿を見たのははじめて。思ったより小さい。まだ子どもだろう。めだった外傷はないけれど、剝製のようにピクリとも動かない。

◉ねこまんま
 真冬のある朝、いまの半分くらいの大きさだったソバがかぼそい声で鳴いていたのも、すぐわきの植え込みの陰だった。ノラか、それとも近くで捨てられたか。ありあわせの牛乳をやったりしているうちに、だんだん離れがたくなってくる。
 このままわが家にいてもらおうかな。動物を飼った経験は(小学生時代のセキセイインコや金魚をのぞいて)ないけれど、猫なら犬とちがってつないでおく必要もないし、広い庭で好きにさせておけばいい。そんな心境にかたむいたとき、いちばん悩んだのは何を食べさせるかであった。
 夫婦で南房総に居を移す前から、自分たちなりに消費の簡素化と食の自給率向上につとめてきたつもりだ。翻訳の仕事をとおして出会った「無銭経済」提唱者マーク・ボイルの生きかたにも背中を押され、「買ってすまさずに家でつくれないか」、それができない場合は「近くでつくっている人がいないか」をまず考えるのが習い性に。房州の恵まれた自然環境と人間関係におおいに助けられ、近隣の生産者から入手できる品もあわせた地域内自給率は、東京や横浜で働いていたころとくらべて格段に高まった。
 ところがペットフードはといえば、遠方の工場で大量生産される加工食品の最たるもの。簡素化と地産地消の方針にはなはだしく逆行する。長年の愛用品——瓶ビールやポテチ——ならまだしも、これまで無縁だった品をわざわざ買い物リストにつけくわえるのは心理的抵抗が大きい。
 昔から「ねこまんま」といわれるぐらいだし、人間の残りものでかまわないのでは? 周囲にたずねてまわったが、猫には動物性たんぱく質が必須で、逆にコメや野菜はまったく不要とのこと。たんぱく質というと豆やとうふが中心の「ゆるベジ」な私たちの食習慣に、肉食獣をつきあわせるのは無理があるらしい。
 かといって、毎日おネコさま用の肉や魚を買ってくる余裕もない。そもそも現在のような半農暮らしを選んだ動機には、「新鮮・美味・安心」「育てて食べるのが楽しい」もさることながら、「無理してお金をかせがずにすむ」「買い物に行く手間がはぶける」も大きな比重をしめているのだから。
 結局、つのる猫かわいさを前にして、地産地消の旗じるしなどはどこへやら。友人の助言をあおぎ、高価すぎず激安でもないドライフードを購入する。計画どおりにいかないのが人生。こうして、思いがけぬ喜びとなぐさめの源泉がわが家にやってきた。

◉とって食べる
 人間からエサをもらい慣れたら本来の猫らしさがうしなわれてしまうのでは……との心配をよそに、うちへ来て間もなくソバは狩猟本能を発揮しはじめた。ソバージュ(フランス語で「野生」の意)に由来する名に恥じず、バッタ、トカゲ、ネズミ、ときに野鳥をつかまえて骨までバリバリ食いつくす。
 ネズミに天井裏で運動会をもよおされたり、モミで保存している自家米をさんざん食い荒らされたりの被害も、ソバが住みついて以来ぱったりやんだ。さらには隣家の納屋にも出張してありがたがられている。猫にとってネズミは完全食。必須栄養素がバランスよく含まれた新鮮なごちそうだ。その分、ドライフードの給餌量を少なくおさえられる。買ってすまさず狩ってすますソバはえらい。
 手ごろな鳥なら何でもねらうのかと思いきや、ふしぎと手を出さないものもある。カワラヒワ、メジロ、ヒヨドリなどは器用に狩ってくるのに、すぐ近くで子育て中のツバメには関心を示さない。今年の春、納屋の戸を開けっぱなしにしてツバメに出入りを許し、巣づくりさせたのは、ほかならぬソバであった。ついに「育てて食べる」知恵までつけたか……と想像をたくましくしたが、どうやら見込みちがいだったよう。最初の世帯がぶじ巣立ったあと、あらたに入居した世帯の子どもら(六きょうだい)が、まさにいま庭で飛行訓練にはげんでいる。

◉狩りは暴力?
 めずらしい獲物を披露してひとしきり私たちの称賛をあびたソバは、毛づくろいを終えると、ウサギをくわえて家の裏へと去っていった。あくる朝、周辺をざっと探したが、食べ残しなどの形跡は見あたらず。あれ全部をいちどきにたいらげたとしたら、かなりの量にちがいない。丸一日、ドライフードを催促するそぶりも見せなかった。
 ソバの狩猟風景に接したとき私は、思わずほれぼれとながめてしまう。邪心なく目の前の「いま」に集中する姿は美しくさえ感じられる。けれども一方で、獲物の内臓もあらわな宴のまっさいちゅうに誰かが来あわせたりすると、相手によっては不快感を与えるのではないか、と変に気をまわす自分もいる。
このどっちつかずの心情は何だろう。猫の狩りは残酷な行為なの?
 ひとつの答えを、現在翻訳中のDrinking Molotov Cocktails with Gandhi(『モロトフ・カクテルをガンディーと』)に見つけた。著者のマーク・ボイルは次のように述べる。
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食べる行為自体は本質的に暴力たりえないと言ってさしつかえないだろう。誰しも生きていくために食べる必要がある。またその営為は、命を別の形に変容させ、精緻で多様性に富んだ生態系をつくりだす役割の、不可欠な一翼を担っている。それなのに、食物とのかかわりが密接な狩猟採集民の表面的な姿だけを見て、えらく暴力的な集団だとみなしがちなのが、一般的な暴力観だ。日々、じかに腕力をふるって動物を傷つけ殺すなんて、と。
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 なるほど、私のなかにも刷りこまれた「一般的な暴力観」が、食べる必要にせまられての殺生を暴力と混同させていたとみえる。食べられる者(被捕食者)の死によって食べる者(捕食者)が生かされるのは自然の摂理、肉食しないベジタリアンだって植物の命をもらって生きている。食料調達のための狩りと、毛皮やツノだけを目的とした富裕層の娯楽(トロフィー・ハンティングと呼ぶそうだ)とを、ごっちゃにしてはいけない。
「殺傷=暴力」との思いこみはなかなか根ぶかくて、うっかりしていると翻訳時にもミスを誘発する。たとえば、先の引用中、最後の文で「腕力」とした部分。元の英語のフレーズphysical forceを直訳すると「身体的(物理的)な力」となるが、先ほど翻訳作業ファイルからこのくだりをコピーしてくる際、重大な誤りを発見してしまった。無意識のうちにphysical forceを「身体的暴力」と訳していたのである。violence(暴力)の意味あいは原文に存在しない——文脈上、慎重に避けられている——にもかかわらず。
 あわてて「腕力」に(「身体的な力」でもいいけれど、やや冗長なので)修正したあと、念のためファイル全体を点検したところ、あろうことか、さらに2か所も同じミスが見つかった。いずれも「殺傷=暴力」の刷りこみのなせるわざ。硬直した暴力観を問いなおす必要を説く本を、非力をかえりみず訳しつづける筆先で、みごとにわが固定観念をさらけ出していたとは……。ちなみに「非力」の「力」は、 forceでもviolenceでもなく、 ability(能力)だ。

◉食うか食われるか
 狩りの才能を持たぬ私たちにとって、食生活の大きな支えは自給用のコメづくり。ところがその生命線たる田んぼが、年々激しさを増すイノシシの襲撃に悩まされている。
 雑草を刈って隠れ場所をへらし、ロケット花火(いまや農業用品の定番)や大音量の音楽でけん制し、竹垣を築き、廃油(においを嫌う)を入れた竹筒をあちこちにつるし、夜の巡回を強化したが、懸命の努力もむなしく被害は拡大する一方だ。ついに昨年は収穫が半減してしまった。
 さあ今年はどうしよう——。日常のあれこれにかまけて検討を先送りしているうち、まだ七月下旬だというのに「偵察」に入られた。例年より3週間以上早い。この猛暑で稲の生長が早まったせいかもしれないし、単純に生息数がふえた余波かもしれない。田を歩きまわった足跡にそって、左右の株がいくぶんかしいだ。先遣隊に「ここはちょろい」と思わせたが最後、いずれ一家をあげて恰好のエサ場(泥あび用の風呂つき)にされるのは目に見えている。
「もう電柵を買うしか手がないよ。でなきゃ今年こそ全滅だぞ」。耐えかねて夫が言う。周囲のほぼすべての田んぼに電気柵が張りめぐらされるようになっても、導入をこばみつづけてきたのは、どちらかといえば私のほうだった。それなりの初期費用がかかるうえ、漏電防止のためひんぱんに草刈りしなければならない。しかも、いつかは電柵さえ恐れぬスーパーイノシシが出現するだろう。せっかくここまでしのいできたのに、いまさら機械にたよるのは、ちょっぴりくやしい。
 だが、たしかにやせがまんも限界に来ている。去年だって、シシの食べ残しをひと株ひと株(場所によっては穂の一本ごとに)選んで手刈りするシロウト仕事だから、かろうじて収穫ゼロにならなかったものの、営農用の田んぼなら「全滅」認定まちがいなしのレベルだ。5月末に友人らと手植えした稲は、まだようやく穂が出はじめたばかり。稲刈りまで残り2か月近くのあいだに受けるであろう実害に加えて、連日連夜の精神的ストレスも考えると、ウーン、さすがの私もついに折れた。
 そうと覚悟が決まれば、一刻も無駄にすまい。柵を設置する境界線を考えながら雑草を刈り、昨年から朽ちるにまかせていた竹垣の残骸をかたづけたら、もよりのホームセンターへ。電源装置本体に電線や支柱などをあわせて一式4万円也。ほぼゼロ円の自己流柵づくりには、竹を切りだす作業からはじめてたっぷり数日かかっていたが、市販品はやはり効率的にできている。日没前にぶじ設置完了とあいなった。
 食うか、食われるか。おたがい食べる必要にせまられての攻防。さて、最新鋭(わが家比)装備導入の効果やいかに。

吉田奈緒子(『モロトフ・カクテルをガンディーと』訳者)
初出:『scripta』autumn 2018

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