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私が死にたいと思わなくなった日①

はじめまして。おむすびころもです。

文章を書くのは慣れてないですが、最後まで読んでいただけたら幸いです‪𓂃 𓈒𓏸

誤字脱字ありましたらすみません!

これから書くことは、私が過去に体験したこと、感じたことです。

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はじめに

「死にたい」って、結構軽い気持ちで口にしたり、思ったりしますよね。

「明日からテストだー死にたい。」
「今日これからバイト死にたい。」

本当は思っていなくても簡単に口にしてしまう。
私もそうでした。


口にしたところで、本当に死ぬわけではないですし。
自ら死ぬつもりも全くありません。

死が遠くに見えてしまうからこそ、簡単に口にしてしまうのでしょうね。

そんな私が、本当に死にたいと思った時があります。
本当に死にたい。つまり命を絶とうと思ったのです。

しかしながら私は今、生きています。

なぜ?

そう。
死にたいという気持ちがある日全て消え去ったのです。

本気で死のうとしていた私がどうしてか。

死にたいと思った理由から、その選択肢が消えた時までの話を、綴りたいと思います。

今回の①では、死にたいと思うきっかけとなった出来事までの事を書きたいと思います。
もし宜しければ最後までご覧下さい。

自粛後初めての対面授業

2020年、新型コロナウィルスは日本にも広まり、感染者数もどんどん増えてました。

そして自粛生活を余儀なくされたのです。

私もそうでした。
私は音大で歌を勉強しているのですが、ほとんどの授業はレポート提出に変更。

音大特有の実技のレッスンはZoomなどを利用したオンラインレッスンでした。

そもそも家の中で大声で歌うなんて、近所迷惑も良いところ。
私のアパートは防音対策がされていないので、オンラインレッスンの時以外は歌うのを控えていました。

十分に練習をすることが出来ずにレッスンを受けるのは相当なストレスでした。

思う存分に歌を歌えない。歌いたい。歌いたい。

1番のストレスは友達に会えないことでした。
大学に行き、友達と会って話をする。
当たり前にしていたことなのに、今はできない。

私達が大学で再び会うことが出来たのは、6月の1週目。
今年度入って初めての対面授業です。

この授業は座学ではなく、実技の授業です。
4年生の必修科目なので、同級生全員に会える授業です。

大好きな友達とこの授業を受けることを私は、本当に楽しみにしていました。

この日はオペラのアンサンブルやソロの音楽稽古で、私も練習室で自分のパートの練習をしていました。
歌を歌うのもそうですが、これから友達と会えるのかと思うととてもワクワクしていました。

授業開始1時間前ぐらい。 
練習室で1人。

練習をして一息つき、まだ時間があるなとスマホを見ていた時のことです。
1本の電話がかかってきました。

相手は姉です。

姉とは仲が良く、たまに電話をしてたわいのない話をしますが、平日の昼に電話をかけてくることは滅多にありませんでした。

少し嫌な予感がしました。

姉は今大丈夫か私に聞いてから要件を話しました。

「おばあちゃんが肺炎を起こして入院したこと、知ってる?もしかしたら厳しいかもしれないから、お母さんが今週の土日に帰ってきた方が良いって言ってたよ。考えたくないけど、もうすぐかもしれない。」

嫌な予感は的中しました。

介護施設にいた父方の祖母は、体調に異変があり、急遽入院することになったそうです。

頭を固い何かで強く殴られたような感覚になりました。

私「そうだったんだ。連絡ありがとう。嫌だな。」
姉「本当に嫌だね。考えたくないね。じゃあ、授業前にごめんね。切るね。」

電話を切った私は、その場に座り込み、泣きました。
不安で体も心も押し潰されそうでした。

私は、祖母が肺炎になったことを知らなかったのです。

そして肺炎は、父方の祖父が亡くなった原因でもあります。

おばあちゃんが死んでしまう。どうしよう。

今まで曾祖母、母方の祖父母、父方の祖父をなくしましたが、それを知らされるのはほとんど身内からの電話で

体調が悪いから帰っておいで

でした。

小学生の時に先生に呼び出され

親御さんから電話があって、ご家族の体調が悪くなったそうなので、今日はお家に帰りましょうね。

と、言われたことがありました。
その時はただ体調が悪いだけだと思い、お見舞いに行くのかな?程度に思っていました。

しかし家に帰ると、玄関には「忌中」と書いた紙が貼ってあり、中に入ると白い布を顔に覆った曾祖母がいました。

この日から、家族からの電話で「体調が悪い」と言われると、不幸なことがあったのではないかと不安になります。

神様お願いします。おばあちゃんを死なせないで。

ただそう祈りながら、私は暫く1人静かに泣いていました。

やっと会えた友達

泣き腫らし、時計を見るとだいぶ時間が過ぎていました。
友達に心配させないように涙をふき、鼻をかもうと思うと、ティッシュがないことに気づきました。

仕方なくトイレットペーパーで鼻をかもうと思いトイレに向かいました。

この時も涙は、いつでも出られるよう目の表面まで溜まっていました。

トイレに向かうまでの廊下。
そこには同じ声楽科の友達が3人ほどおり、話しをしていました。

その中の1人が私に気づいて手を振ってくれました。 

久しぶりに会えた友達です。

いつもの私なら、嬉しくて手を振り返し、笑顔で話をするのですが、その時は少し話しをするだけで涙が溢れそうでした。

ここで泣いたら心配をかけてしまうし、あったことを話さないといけない。

私はどういう顔をすれば良いのか分からず、その友達を無視してしまったのです。

あんなに会うのを楽しみにしていたのに、気づかない振りをしてトイレに駆け込み、また涙が溢れました。

ごめん。ごめん。

せっかく会えたのに、こんなことをしてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

しかし、祖母のことで胸は不安な気持ちでいっぱいで、友達と話をする気には到底なりませんでした。

この不安な気持ちを打ち明ける気にもなりませんでした。

打ち明けると、死が近くになってしまうのではないかと、怖かったのです。

久しぶりに会えて、話したいことが沢山ありました。
会えるのを楽しみにしていました。

それが綺麗に消えてしまうほど、私の心は不安だったのです。 

あの時無視したこと、今でも後悔しています。
本当にごめんね。

涙も止まり、見た目もいつもと変わらないとチェックをし、練習室に戻りました。

泣いたので歌が上手く歌えず、少しだけ練習し直して授業へ向かいました。

授業中は内容に集中して、涙は出ませんでしたが、何度か姉の言葉が頭にチラつきました。

授業後、久しぶりに会えた友達と沢山話しをしましたが、正直頭の中は祖母のことでいっぱいでした。

家に帰ると、すぐに実家に帰る予定を立てました。

幸い、その週の土日にはバイトが入っておらず、金曜日の夕方から帰れることになりました。

正直帰ることは少し悩みました。
コロナが流行っている今、新幹線などあまり乗らない方が良いのではないか。
この状況下で、私がお見舞いに行っても良いのだろうか。
(実家までは新幹線で1時間半かかります)

しかし、このまま祖母に会えずにお別れをするのはどうしても嫌で、帰る決断をしました。

私は今まで、家族を看取ったことがありません。

私が兄妹で末っ子ということもあるかもしれないですが、家族が重い病気だったり、死期が近いことは、いつも伏せられていました。

祖母は、私が生まれた時からずっとお世話をしてくれた大切な人です。

せめて祖母は看取りたい。

…看取りたいと思っていた時点で、もう祖母の死を受け入れていたのかもしれないですね。

しかし、もう後から死の知らせを聞くのは、うんざりだったのです。

―――――――――――――――――――――――

翌日、新幹線に乗って実家に帰りました。

新幹線の中でずっと、家族からLINEが来ないよう祈っていました。

どうか間に合いますように。会えますように。

その日の新幹線は、いつもよりも長く感じました。

そして私は、久しぶりに地元に到着しました。

最後に

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

自分でも思い返しながらまた涙が溢れました。

この時は、友達に会えて「嬉しい」感情と、祖母の肺炎で「不安・悲しい」感情が混ざって混ざって、今まで体験したことがない気持ちになっていました。

(因みに祖母はコロナでは無かったです。)

しかもコロナ禍でやむを得ない自粛期間。

良くないことが連続していて、余計に精神的に辛かったのもあると思います。

次のお話では地元に帰った私が、祖母のお見舞いに行った話をしようと思います。

正直、悲しい過去は記憶を消してしまって、曖昧なところもあります。

なるべく思い出して書いているつもりですが、変な部分があれば、あたたかく見守ってください…。

それでは今回はこのあたりで。
ありがとうございました。


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