会社員を辞めて学振をとろうとしたが落ちたのでJST次世代をとって博士進学した話

この記事は、

「会社員を辞めて学振をとるということ」

という記事にインスパイアされて綴る記事である。この引用した記事にあるように、会社員をやめて学振を取り博士課程に出戻ってくるというのは稀であることには間違いないだろうけど、最近だと学振以外の支援も少しずつ増えてきていて、アカデミアに未練のある社会人たちにとって、退職D進ということ自体の敷居は下がりつつあるのではないかというようにも思う。もうなんだかんだで僕は会社を退職してから2年ほど博士学生をやったのだけど、忘れないうちに退職までのことや今のことを簡単に書いてみたい。ただし、自分の場合は、引用した記事の方のようにうまくいかず、意気込んで準備した割には時間もかった上に学振も落ちてしまい全く輝かしい話ではないのだけれども、備忘録としてこれまでの経緯をここに残させてほしい。


会社員時代、日曜出勤にて

いきなりネガティブな話から始まってしまうんだけど、会社員時代の僕は限界だった。常に激務に追われ、ことあるごとにストレスで難聴になり、布団に潜れば次の日に怯え動機が高まり、どうしようもない時は深夜にストロングゼロを流し込んで無理やり寝た。平日は全く腹が減らず、食べてもあまり味はしないが、とてつもなく喉が渇くので毎日4リットルくらい水を飲んでいた。それでも食べないとフラフラしてくるので、昼休みにはコンビニでおにぎり一個、ウィーダーインゼリー、野菜生活スムージーを買うものの、結局昼休み中はウィーダーとスムージーしか胃に入らず、おにぎりは夕方になって諸々のミーティング等が落ち着いてきた頃にようやく食べれた。ちなみに、当初の僕はこの組み合わせの昼食のことを自分の中で「うつ病セット」と呼んでいたが、なんとか最後までうつにはならずに自分は持ちこたえていた。作業のない土日は少し食欲も湧き、味もしっかりするので、その時にある程度食べれていたおかげで生きていたのではないかと思う。

そんな中、ある日曜の出勤中に本当にしんどくなり近くのカフェに避難し現実逃避にふける日があった。その時に読んだのが、この記事「会社員を辞めて学振をとるということ」だった。元々博士進学への未練はずっとあったので、過去にもこの記事ないしは退職D進した人たちの他の記事も良く読んではいたのだが、メンタルが限界のタイミングで読んだその時のダメージは相当なものであり自分の人生を考え直す大きなきっかけとなった。何故自分は特段好きでもない仕事のために命を削ってまで働かなければならないのだろうと。何故修士課程の時、研究を面白いと感じ、博士進学にも興味や憧れがあったのに、学振も挑戦せず学会発表や論文執筆にもろくにコミットせず、自分には能力も金もないからと諦め、なんとなく周りに合わせて就職の道を選んだのだろうと。当初の僕は過去への反省や後悔、現状への無力感や諦め、そして研究に対する憧れなど、いろんな想いが込み上げてきて静かに泣いた。成人男性が日曜に黙々とカフェで一人泣いているのは本当に気味が悪かっただろう。店員さんやほかのお客さんにはばれない様に気を付けてはいたが、迷惑をかけてしまっていたら申し訳なかった。

そんなこともあり、「特に思い入れの無い仕事のために命を削って生きるくらいなら、叶わなかったとしても本当にやりたいことに挑戦して死ぬ人生のほうが幾分かはましだろう」と思うようになり、本当に手に入れたかった人生である「博士進学をして研究者になる」という夢を叶えるべく、学振の執筆、そして退職D進の計画を練ることを決意し、新しい人生に向けた準備の日々が始まった。

業績確保のため論文を書く

しかし、やはりネックになるのは金銭面だ。ある程度貯金はしていたけど、無給で3年間、授業料も含めて支払えるほどの蓄えはない。また、ほぼ毎日が残業で土日も仕事せざるを得ない状況で、社会人博士という選択肢は自分の中で無かった。多分やっていたら本当に死んだ。なので、博士学生が収入を得る最も王道な制度である学振DC1の採択を目指して、僕の長い奮闘が始まった。学振は研究計画に加え業績の有無、特に査読付英語論文の有無が大事であるということは良く聞いていた。僕は業績と言えば国内の学会発表が2件あっただけで、お世辞にもDC1で戦えるような業績ではなかったのでまずは修論のネタをベースに英文雑誌に投稿しようと考えた。しかし、学術雑誌に投稿する論文を書き上げるというのは予想以上に困難で、しかも働きながらそれを遂行することは自分にとって相当きつく、英語力も全くないことも相まって、結局論文を英語で書き上げるのに1年半近くもかかってしまった。修士時代に論文を書くというトレーニングをしっかりとしていなかったこと、研究内容にも多くの課題が残っていたことが大きな仇となり、なんとなく過ごしてしまった過去を改めて悔やんだ。そんなこんなで論文を社会人3年目の秋頃にはなんとか英文雑誌に投稿することができ、よしこれで次の申請の学振にはなんとか間に合うかと思っていたらある日メールが届いているので見てみるとそこには「Reject」の文字。正直、体力的にも疲労困憊の中で書き上げた論文だったので心は折れそうだったが、査読には回っていたのでレビュワーの指摘を可能な限り反映し別の雑誌に再投稿へ…このプロセスもだいぶしんどかった。。。

このころ、だいたい2月くらいだったので、そろそろ受け入れ先のラボから了承をもらっておかないといけない。僕は、前々から興味を持っていたラボがあったので、そこにアポイントをとり、有難いことに学振申請をすること、それが通ったら進学することについて了承をもらうことができた。ラボに連絡を取ったことにより、もうこの計画は遂行しきるしかなくなった。僕の拙い研究計画の素案には厳しい指摘をたくさんもらったけど、研究の世界にまた足を踏み入れられることに現実が帯びてきて胸を熱くした。

そして、論文のアクセプトを学振提出〆切である6月に間に合わせるのもだいぶ怪しくなってきたので、その時もってた研究のネタをベースに国内での学会発表1件、国際学会での発表1件を3月にねじ込んで少しでも業績欄に書ける内容を増やせるように足掻いた。当時、コロナ禍でオンライン開催がメインとなっており、会社もリモートワークが許可され始めた時だったので、オンラインで発表できることは時間的にとても助かった。なお、国内学会のほうは運よく学会賞を取ることができ、アカデミアでやっていけるのか自信が無かった自分にとってはとても嬉しかった。国際学会は初だったのでめちゃくちゃ緊張したが、超カタコト英語で乗り切った。そして、しばらくしたあと論文のMajor Revisionのメールが届く。Rejectじゃないだけ前進したなと思って査読者のコメントを見てみると、これはかなりReject寄りのRevisionであることが分かった。査読者は3人(最初の2人で割れたので3人目が入ったよう)で、1人が好意的、1人が否定的、1人がやや否定的といった感じで、指摘の総数はざっと70件くらい(うそやろ!)。これがだいたい4月か5月頃だったと思うので、いやもう絶対学振提出までのアクセプトは間に合わんわ笑と思って学振はここまでの業績でトライすることとなった。

学振の執筆と逼迫する仕事

業績作りも結局思うようには進まなかったが、もっと困難だったのは学振の研究計画の執筆のほうだった。改めて先行研究の英語論文を読み返し、自分のやりたいことを整理して博士課程で行う研究計画を考えることは本当にワクワクしたけど、やはり研究からしばらくずっと離れていた分、先行研究に関する網羅的な知識も乏しく、重大な問いを見つけそれを論理的に構成し説得的な計画書を作るということは当時の自分には難しすぎたと思う。しかも4月くらいから会社の仕事がかなり逼迫し、全ての時間が仕事で埋められ土日すら学振の書類に手を付けることが難しくなってしまった。GWも全て仕事に埋め尽くされる中、1日だけなんとか学振を書く時間を作って泣きながら書類をまとめ、ギリギリ期限に間に合わせて学振書類を提出した。書類の出来はさておき、自分の考えた研究計画を改めて見返して、自分が博士進学したらこの研究をやれるんだと思ったら本当に高揚した。少し落ち着いたタイミングで、会社にも退職を考えている旨の頭出しをした。

その後、仕事が超絶忙しくなり本当にきつい日々が続いた。納品したシステムのバグがいろいろと発覚したりしてクライアントに頭を下げる毎日だった。毎日心が折れそうだったが、本当にしんどくなったら自分の学振申請書を見返すようにしていた。この仕事を乗り切ったら、申請書に書いたこの研究を始められるんだ!と自分に言い聞かせることでなんとか心を保った。なお、Major Revisionの論文もどっかで対応したんだろうけどあまり記憶がない。多分、お盆期間とかにまとめてやったんだと思うけど。再提出後、査読者の3人中2人は納得してくれたけど1人は納得してくれず、Major Revisionが続いた。今思えばほんと良くやってたと思う。

そして9月の下旬、学振の結果が届いた。結果は冒頭にも書いたように不採択。不採択のスコアはBで、平均よりTスコアがわずかに低いくらいであった。終いには、Major Revision×2だった論文はRejectで返ってきた。3年近く準備した上で、仕事でボロボロになっている中この結果は流石に堪えた。やっぱ研究向いてないから辞めようかと思ってしばらくの間はふてくされてた。

JST次世代が始まる

そんな時、学振相当の給与がもらえるかもしれないという博士後期課程JST次世代のプロジェクトが始まったというニュースは僕にとってこれとない朗報だった。情報が大学ごとに閉じているようだったので、受入先のボスに確認をしてみると弊大学でもその支援は始まっており、なんなら始まったばっかで認知度が低く採用枠も余ってるくらいだから今マジでチャンスとのこと。自分の場合、それに応募できるのが2月の院試の後すぐだったので会社を辞めるタイミングとかを考えると色々難しい時期だったけど、もうこれは神が俺の背中を押してくれてるに違いないと思いJST次世代に賭けてみることにし、再度僕の準備が始まった。

退職、院試準備

院試には英語の筆記試験が必要だった。しかし、英語は本当にずっと苦手で、過去問も見てみたがその時の英語力だと充分に問題を解ききることは相当難しい状態だったので、12月末で会社を辞め、2ヶ月ほど英語の勉強の期間を設けることを決意した。今思えば一歩間違えて試験に落ちてたら無職になってたのでよく思い切ったなと思う。会社にも本格的に辞める旨を報告することになり、給与面や将来性とかの面で心配されることもあったけど、そんなのは自分が1番良く分かってるし全て正論でしかないので全部聞き入れた上で「でも、夢なんで!」と言い続けたら話し合いはすんなり終わった。会社側に辞める理由を起因せずにポジティブな理由で辞めれるし、加えてメリットデメリットみたいな立て付けを全て回避できるので双方にとってベストな理由だったと思う。本当に夢だし。そんなこんなで無事話は進み12月末には退職できることに。ほんとは「学振も取ってるんで」と言って格好良く辞めたかったけど、とにかく早く研究したかったのでもうなんでも良かった。あの時の開放感は忘れない。

院試

2ヶ月ほど英語の勉強に専念した。受験生に戻ったみたいで楽しかったけど、18歳ぐらいの頃と比べて格段に勉強する体力が落ちていた。それでもだいたい1日10時間以上は勉強するようにし、その結果、だいぶ危うかったけど英語試験をなんとかパスし、その後の面接試験も無事突破。これで晴れて博士学生になれることが確定した。なお、会社を辞めてノンストレスになると食欲が爆戻りし、2ヶ月で一気に10キロ太った。太ったと言っても働いているときがストレスで何も食べれず痩せすぎていたので、BMIが平均くらいに戻り、働いていた時よりずっと心身健康な体を手に入れた。加えて、2つの雑誌でリジェクト食らってた論文は3度目の正直でアクセプトの連絡をこの頃もらい、嬉しさのあまり酒をたくさん飲んだのでもう2キロくらい太った。

JST次世代の申請

院試が終わったらすぐにJSTの申請だ。学振の申請書も、書き上げた時は盲目になってたけど冷静に眺めてみると改善点は本当にたくさんあった。その時の研究計画をベースにブラッシュアップした申請書を作り、業績欄も少しパワーアップしたもので提出。3月下旬に採択の通知が来て、年間220万の給与(額面上は雑所得)と研究費を持って博士課程がスタートできることに。3年間ほど、我慢して準備した甲斐があったなとようやく報われた瞬間だった。当時は認知度も低かったので申請した多くの人は採択だったんだろうけど、それでも嬉しかった。

ついでにJASSOの1種も申請

JST次世代の良いところは、学振よりも若干他の資金の併給や仕事で給与を得ることへの制約が緩いところにある。貸与型の第一種奨学金(JASSO)の併給もokだったので、満額の月12万2000円を借りることにし、その申請も無事通った。第一種奨学金は、博士課程修了時に成績優秀だった場合に全額および半額の返済が免除になる。基本的には、どれだけ英語の査読付論文を書いたかという部分が一番大きな返済免除の審査対象となるとのこと。なので全額免除を目指して現在も奮闘中。在学中の頑張りに400万以上の借金を負うかどうかが掛かっているので毎日にも精が出る。加えてRAやTAの仕事も始め、給付型の学内奨学金も取れたものがあり、月額で言うと全て合わせておよそ月30万〜40万程度の支給があるため、金銭面に不安のあった自分にとっては結果的に学振よりも良かったのではないかと思う。まあ最終的にJASSOが免除されればだけど。

ちなみに、現在では財務省の指摘が入り、JST次世代の採択者はJASSOの受給自体は妨げないが返済免除の対象者からは除外となることが決定した。僕はそれが決定する前の年から借りているので返済免除の対象者にはなるみたいだったけど、博士学生が300万も400万も稼ぐのは贅沢だみたいなメッセージにも聞こえて、この決定事項には少し腹が立った。なるべく多くの人に受給できるようにする試み自体は良いし、そのバランスも重要なんだとは思う。ただ、220万とか240万で、さらにそこから授業料は払うわけで、特に都内の場合、本当にそれで人並みに暮らしていけるかというと、それは間違いなく難しいだろう。

博士課程に進学して

さて、じゃあ肝心の研究のほうはどうかと言うと、かなり順調に進んでいる。3年間で博士号を取ること自体は全く問題なさそうで、これは会社員時代に身につけたある程度のスケジューリング力と、当たり前にちゃんと毎日朝からラボに行くという能力によって達成できたと思う。学生なので本当に毎日が自由である。いつ研究しても良いし、いつ休んでも良い。ただ、自由が故にそれに飲まれてしまうケースは多いのではないだろうか。少し気を抜いて休んでしまうと、ずっとだらだらしてしまい気付けば一年経ってしまうケースもあれば、逆に何らかの不安やプレッシャーを感じてうまく休むことができず、どこかで調子を崩してしまうパターンもある。自分の場合は、基本的に平日は毎日8時間は働き、土日は可能な限り休むというホワイト企業勤務体制のペースを自分の中で作り上げたので、それが結果として良かったのかもしれない。頑張るうえでは休むことも本当に大事だ。

大学での毎日は、クライアントから急に無理なお願いはされないし、上司からこれ今日中にお願いと何かを急に頼まれることも、全く畑違いなプロジェクトに急にアサインされることもない。研究に没頭して、新しいことを学んで、本当に毎日幸せな時間を過ごせている。また、過去の苦労もあってか論文の執筆にも慣れてきて、ネタができれば学会発表にも積極的にチャレンジし、いろんな経験をする中で少しは自信もついてきた。有難いことに、とても優秀な研究者たちが周りにいてくれて、毎日刺激をもらうし、もっと精進しなければと日々思う。

そんなこんなで、会社を辞めたこと自体の後悔は全くと言っていいほどなく、本当に心の底からこの選択をして良かったと思っている。ただ、会社で数年間働いたこと自体も結果として後悔はしてないし、その時の経験が間違いなく今の自分を作ってると思う。会社員時代も、中には楽しいと思える仕事もあったし、そこで培ったエンジニアリングのスキルや資料作成のスキルは確実に今に活きている。また、会社員時代の地獄の3年間の進学準備の期間があったおかげで、論文をパブリッシュするまでの大変さ、研究費申請を通すことの難しさを味わうことができ、この苦労を進学前に経験できたことは大きなアドバンテージになった。そしてなにより、その進学準備の期間が、研究者になりたいという自分の想いを確固たるものにしてくれた。自分なんかが研究者になれるのだろうか?という葛藤をずっと持ち続けていたけれど、社会人の時に分からないなりに論文や学会、学振に挑戦して、うまくいかなくても最後の最後まで悩み切って、やっぱり僕は研究がしたいという結論に辿り着けたことが今でも自分の根幹になっている。

そんなわけで、今社会人で、研究に未練があるけど大学に戻るのにはお金がネックになっているというのであれば、博士学生への支援制度の獲得を狙った退職D進は良い選択肢のひとつになるのではないだろうか。昔と比べて少しだけ状況は良くなって、学振以外にもJST次世代、卓越大学院といった制度での支給、TAやRA、非常勤講師などの仕事のチャンスもあり、働きながらのバランスを考えながらの制度も整い始めてきてはいる。もちろん収入が激減するのは避けられないだろうし、将来の保証は全くないし、それなりのリスクを負う覚悟が必要であることには代わりはないのだけれど。。。

最後にこの記事の言葉に僕は救われてきたのでそれを引用して記事を終わりにしたい。

それでも研究がしたいと思えるのなら・・・それは間違いなく、行動に移し、命を懸けて科学の発展に尽くすべきだと思う。

会社員を辞めて学振をとるということ


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