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いますぐデータを消しなさい

ロンドンからボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボへは直行便がなかった。

「じゃ、まあ、みんなそれぞれサラエボに昼までに到着するということで」

そう、幹事のSちゃんが連絡してきた。
日本人でよく食べ歩きする仲間たち。このときも、遠足のようなかたちでサラエボにあるというおいしいバーベキューグリルの店に行こうという週末旅だった。

どうも、ウィーン経由がいちばん効率がいいらしいということで、大半のメンバーが同じオーストリア航空の飛行機をつかってサラエボ入りすることになった。
まだ肌寒いロンドンとは対照的に、移動するにつけどんどんと気温が上がり、私は着ていたライダースジャケットを前のシートに吊り下げた。

「オーストリア航空をご利用いただきありがとうございました。どうぞサラエボですばらしいご滞在を」

アナウンスが流れ、やれやれと足元からカバンを引っ張り出し、友達としゃべりながら歩きだす。
軍用空港を半分だけ民間利用に転用しているというだけあって、空港の施設は非常にそっけなく、初めて訪れたときのポーランドのヴロツワフ空港を思い出させた。
すこし緊張感を呼び起こす灰色の建物。

空港から中心部までは、タクシー数台に分乗して移動することにした。
スペインやクロアチアをほうふつとさせる茶色い屋根の家並み。
たどりついた旧市街には川が流れ、モスクの尖塔と西洋建築の街並みが混在していた。
イスタンブールともまた違う、文化の交差路の街。

各自部屋で荷解きをし、少しくつろいだ後、トレベヴィチ山に観光へ行くことになった。

バッグからベッドの上に荷物をひろげたが、何か足りない。
あれ?
おかしいな。持ってきたはずのライダースジャケットがない。

そこでハタと気がついた。
前の座席のフックにかけた黒いジャケットが、飛行機の窓と座席の間にあまりにもキッチリ収まっていたから、そのまま忘れてしまったのだ。
しかも、暖かい気候ゆえに、こんなに時間が経つまで気がつかなかった。

がーん。
短い週末旅行だから上着はそれしか持っていない。
レストランには袖なしのワンピースで行くつもりだったから、さすがに冷え込んでくるであろう夕方に羽織る物がないと困ってしまう。

まいったな。

飛行機に忘れ物をするのは初めてではない。

上海では、座席と窓の間に携帯を落としていたのを気づかなかったし、ヒースローではパソコンを忘れたことにベルトコンベアの前で気づいたことがある。

こういう時は、まずは空港の遺失物担当だ。
と、サラエボ空港の電話番号を検索し電話した。しかし、電話を取る気配がまったくない。

こまったな。

となると、次のオプションは、ウィーンのオーストリア航空お客様センターに国際電話か。

そのライダースジャケットは合成皮革で15ポンドほどの安物だった。
でも。
ものすごく気に入っていた。

国際電話をローミングした携帯からかけたら、いったい幾らだろう…と一瞬頭をよぎった。
それでも、お気に入りのジャケットだということのほうが強かった。

「こちらには見つかった忘れ物のレポートは届きませんが、サラエボ空港の遺失物コーナーは朝8時からお昼の12時と、午後3時から5時まで開いています。その時間内に、いまから申し上げる番号に連絡して確認したらどうでしょう」

謎がとけた。
だから、誰も出なかったのか!

夕方までは何もできない以上、観光して楽しむしかない。

みんなと一緒にロープウェイで山に登った。

トレベヴィチ山のてっぺんには、草ぼうぼう、苔むしたボブスレーのコースが、ところどころ崩壊し、苔むして自然に取り込まれている部分と、カラフルな落書き部分という対照的な二つの姿になって残されていた。



1984年のサラエボ冬季オリンピック、といえば、私にとってはカタリーナ・ヴィットだ。
こども心には、それ以外、大したことを記憶していない。
それは、社会主義国家初の冬季オリンピック開催だったという。

サラエボオリンピックが終わるとすぐ、ユーゴスラビアという国の名前は、むしろ、紛争の拠点として耳にするようになり、いまのウクライナ同様、ニュースではいつも爆撃のようす、破壊された建物を見るばかりになった。

ユーゴスラビアという国は、オリンピックを開催したわずか8年後に崩壊してしまう。

観光から戻り、ホテルの部屋からふたたび空港の遺失物係へ電話をかけると、今度は英語を話す女性が応対してくれた。

「席番号を確認できるチケットの半券などをもって、窓口の開いている時間内にくれば引き渡します」

あった!

すでに時間は5時少し前だったから、今からタクシーを飛ばしても間に合わない。
そして、くやしいことに帰りの飛行機は朝6時発。なので、帰りがけに引き取ることもできない。
明日の朝いちばん、8時に開くのにあわせて空港へ行くしかないか。

とりあえず、ホテルのフロントで相談することにした。

「空港に行くシャトルバスは、飛行機の時間に合わせて一日に2本しかでてないんです。だから朝8時に空港につきたいのなら、タクシーでいくか、あるいはトラムとバスを乗り継ぐか…。でも、空港の近くにはバス停はないので、最寄りのバス停からは15分くらい歩くことになりますね」

若いフロントのおねえさんが地図に書き込みをしながら、丁寧に教えてくれた。
空港に行く公共交通機関がないなんて。
驚きだった。

「うーん、バスっていくらくらいかかるんですか?」

来るときに空港からのタクシー代は確か50マルクくらいしたはずだ。日本円で3,500円と言ったところか。

片道だけで、受け取りに行くジャケットが買えてしまうというのがなんだか悔しかった。

「1.60マルクです」

えっ。
バスでいく方法、教えてください。

結局、おねえさんは、時間がかかったとしても乗り換えない方が簡単だろうとバス1本でずっと乗っていくルートを教えてくれた。
そのあと近所のリサイクルショップの場所も教えてもらい、そこで薄手のジャケットを買った。
これでとりあえず今晩のディナーはしのごう。

翌朝、早起きして、出発の準備をした。
来た時にはタクシーで20分ほどだったが、今度はゆっくりとバスで40分、さらに徒歩が15分くらいだから、待ち時間や窓口の時間も考えたら、往復2時間以上かかるはずだ。
みんなにはだいたい朝10時くらいには戻れるはずなので、ランチに間に合わす感じでホテル集合させてくれといっておいた。

朝7時のサラエボ。
空気がひんやりしているので、リサイクルショップで買ったジャケットを着こんで、おねえさんのアドバイスの書きこまれた地図を握り締めた。

最初のバス乗り場はすぐホテルの裏にある。
乗ってしまえばあとはずっと一本だから、難関は最後の徒歩部分だ。
もし迷ったとしても、行きに空港を見つけるのは簡単だろうが、もしも帰り道に迷子になったら、バス停をみつけるのは至難の業になるだろう。
ヘンゼルとグレーテルではないが、帰り道をしっかり覚えておかなくては。

「グッドラック!」

同じおねえさんが、フロントで笑顔で見おくってくれた。

まずは、Trg Austrijeという広場にある始発バス停へむかう。
横のタバコ売店でチケットを買い、地元のひとに混じって無言でたたずむ。
と、そこにやってきたのは、バスはバスでも、トロリーバスだった。
うわあ、クラシック!

「ここで降りたいんです」

ことばがわからないので、とりあえず英語でそういって、指で、ホテルのおねえさんが書き込んでくれたところを示した。
若い運転手は無表情にうなずいた。

トロリーバスは、タクシーが使った大通りとは違う、生活感に満ちた道をするすると抜けていく。
私は日本の少しすたれた温泉街に来たような気持ちがしていた。
すっかり近代的に整った大通り周辺とは違い、灰色がかった建物が続く朝の光景は、ひと気がなくひっそりとしている。

いつも知らない街でバスに乗る時のように、私は運転手のすぐ裏に座り、できる限り地図上のランドマークと現在地点を照らし合わせていた。

車窓から見える建物には、遠目にもはっきりわかる銃弾のあとがそこかしこにあった。
観光の中心である旧市街も、新市街も、とてもきれいに整備されていたから、そこから一歩離れただけの場所に並ぶ、ブツブツと穴があいた建物にハッとされられた。

20数年前に、戦争の真っただ中にあった街。
その10年前にはオリンピックを開催していた街。

立派なロープウェイやボブスレーコースを作るのも
銃弾を降り注いで、それを破壊するのも
どちらも人間がすることなんだな。

丘を上っていくバスの車窓から、遠目にそんなことをぼーっと考えていたとき。

運転手が振り返って私に声をかけたので、そこが降りるバス停だったと気がついた。

ニッコリ笑顔を作ってありがとうというと、車内の人たちがいっせいにこちらに目をむける。
ただひとりのアジア人。荷物もなく、こんな何もないところでどうした、とでも言いたげな視線だった。

ここからは、地図だけが頼りだ。
まあなんとかなるだろう。

道を渡った草ぼうぼうの駐車場には、三菱パジェロが停まっていた。
日本のものを見たことで、意味もなく少し嬉しくなった。

住宅街のひっそりした細道を歩いていくと、丁寧に手入れされた植木がたくさんベランダに飾られた家が目に入った。
すごい、ここだけ色にあふれている。そう思って見上げると、二階のベランダで植木に水をやっているおじいさんと目が合ってしまった。
ニコッ。
ここは笑顔で無害な人間だと伝えるしかない。そう思って、笑顔をつくると、おじいさんが手をあげて応えてくれた。

15分ほど歩いたところで、突然目の前が開け、幹線道路にぶつかった。
そして、ぽっかり空が広がる右手に、管制塔がすくっと建っていた。

空港だ!

長い冒険を終えたような、奇妙な達成感。
ようやく目的地にたどり着いた証拠写真を撮らなくちゃと携帯を掲げて…

「おい!なにしてる!」

幹線道路の脇に路肩駐車していた車が、パトカーだと気づいたのはその時だった。

肩に掛けた銃ホルダーに手をやりつつ、若い警察官が走り寄ってきたのだ。

ああ。
最後の最後にやっちまった。

ちょうどウィーンからサラエボに向かう飛行機の中で、友人たちと「中国でスパイ容疑を掛けられて、拘束されてしまった日本人」の話をしていたところだったのだ。
ついこの前まで戦争をしていた国。
その、軍用と併用している空港施設の写真を撮る外国人。
どう考えたって、怪しい。

警察官は、目の前に立ちふさがり、携帯を渡せと身振りでしめしてきた。

「えいご?英語、話せるのか?」

そうか、そりゃそうだ。私は怪しいアジア人。
そもそもコミュニケーションが取れるのかを疑ってかかるのは当然だ。

「はい、英語を話せます。すみません、市内からバスと徒歩でやってきて、ようやく空港が見えたから、嬉しくってつい写真を撮ってしまったんです」

なにをいってるんだ。観光客はみんなタクシーで中心部から空港に移動するのが普通だ。
バスなんて時間がかかるし、そもそもこの近くにバス停なんかないのに、観光客が歩いてきたとでもいうのか?

そう、それです。それ。
50マルクをケチって、安いバス料金につられ、警察のお世話になる羽目になった、まぬけな日本人が私です。

「なに?日本人なのか?」

日本人という言葉が、少し彼の態度を変えたように思えた。

「あんな遠い国から高いお金を払ってわざわざやってきて、タクシーに乗らないなんてありえないだろう。それに、スーツケースもカバンも何も持っていないじゃないか」

おっしゃるとおりです。あやしむのも分かります。
でも、私はロンドンに住んでいる日本人で、ここには二泊三日の週末旅行で来てるだけなんです。
いまから飛行機に乗るわけではなくて、明日までサラエボにいるんですが、昨日飛行機の中に上着を忘れてしまったので、遺失物窓口の開く時間に合わせて、取りに来たんです。

「上着なら、着てるじゃないか。そんな見え透いた嘘は通じないぞ」

がーん。
これは、昨日、夜の肌寒さに負けて、買ったんです。ラテン橋近くのリサイクルショップで。

「上着が買えるくらいなら、なぜタクシーに乗らない?」

ちーん。

おっしゃるとおりです。

警察官が疑うのはもっともなのだ。
上着を忘れたからといって代用品を買っちゃえるのに、しかも日本人は金を持っているイメージだろうに、タクシー代をケチって住宅街を歩き、おもむろに空港の写真を遠目から撮影する、なんて。

怪しいですよねえ。

「とにかく、いますぐ、私に画面をみせながら、携帯の写真データを消去しなさい」

少なくとも、あちらの英語力も充分だったから、お互い意思疎通がきちんとできていたのがよかったのだろう。
警察官は、変顔した猫の待ち受け画面の携帯を私に返し、目の前で写真を消すよう迫った。

私が写真を消去したと確認すると、ちょっとだけ緊張感が緩んだ感じがした。

「そもそも、ロンドンにはもっと楽しい場所がいっぱいあるだろうに、なんでこんな何もないつまらない街に週末を過ごしに来たっていうのかい?」

私は、必死で説明をした。

ロンドンに住む日本人の仲間で、食べ歩きの会をしていること。
メンバーの一人が、日本の有名エレクトロニクス企業に勤めていて、その出張でサラエボに来た時に食べたボスニア料理がすごくおいしかったと勧めたので、みんなで体験しに来たこと。
昨夜は丘の上にある高級レストランに行ったが、ヤギのチーズのサラダ、羊レバーのバターソースといったヨーロッパの影響の感じられる料理と、スパイスの効いたオスマンの影響を感じる挽肉料理などバラエティに富んでいて、ボスニア料理の幅の広さに感服してしまった。
それに野菜そのものが実においしくて、ボスニアワインの洗練度にも驚かされた。

「つまらないなんてとんでもない!こんなにおいしい料理があるなんて、あなたの国は素晴らしいところよ」

本音だったので、つい力説してしまった。

と。

「そうかー!」

彼の顔が、警察官から、わが街を愛する青年の顔に変わった。

「一番おいしいのは、本当は家庭料理なんだけどな。帰るのは明日なんて、残念だなあ。今日の夜はどこに食事に行く予定なんだい?」

消した写真のすぐ前にあった夜景やボスニア料理、ワインボトルの写真をみせたあと、私は携帯のカレンダーに入れておいた予定をみせた。

「おお!Ćevabdžinica Hodžićか!うんうん。悪くない選択だよ。しかし残念だなあ、もっと長くいたら他にも行って欲しい店がいっぱいあるのに」

食事に誘われかねない勢いで、最後にはすっかり物腰柔らかくなっていた若い警察官は、「行っていいよ、残りの滞在を楽しんでね」と笑顔で見送ってくれた。
その直後、私の背後に走ってきたトラックになにか問題があったのだろう。すぐに険しい顔に戻ると、腕をふって、大きな車両を路肩に寄せていた。

遺失物の引き取りは、そんなできごとの直後だったので、あっけないほどあっさり簡単に終わった気がした。
チケットの半券をみせて、フライトと席番号を証明し、ジャケットがどんなものかを説明すると、さくっと手渡してくれた。

サラエボで買った上着を着たまま、手にはライダースジャケットを持ち、もと来た道を戻ると、さっきの警察官は、別のトラックを止めて、荷台の中を確認していた。
遠目に、私の方向をみたのがわかったので、私は軽くライダースジャケットを持ち上げた。

ありがとう、無事に引き取れたよ。
ね、ありえなさそうだけど、ジャケットのためだっていうのは本当だったでしょう?

彼は、厳しい顔を保ったまま、でも片手をあげてくれた。

帰り道は、同じ弾痕の残る街並みが、違ってみえてきた。
植木の手入れをしていたおじいさん。
家庭料理が一番おいしいと話す警察官の若者。
そんなひとたちが暮らす街。

無事にホテルに着き、WiFiにつないで仲間たちに戻ってきたよとメッセージを送った。

ずいぶん時間かかりましたねといわれ、「なんせ、空港でうっかり写真を撮って警察にとめられちゃって」というと、みんながええーっと声を上げた。

でもね、昨日行ったレストランと今日行くお店の名前をいって、いかにボスニア料理がおいしいかを伝えたら、すぐに解放してくれたよ。

どこの国にも、どこの街にも、そこで暮らす人がいる。
庭の植木の手入れをし、
家庭料理が一番おいしいと胸を張る。
そんな普通のひとたちが、普通に暮らしている街に、
銃弾の雨が降り注ぐ。

いま、テレビの画面にはそんな光景が繰り返されている。

あやまちはくりかえしませぬから。

どうして、繰り返されてしまうのだろう。

旧市街の土産物屋で売られていた、薬莢でつくられた小さな戦車を思い出す。
戦いの歴史をバネにしたたかに逞しく生き抜く感じを受けたっけ。

いま、故郷を離れる決意をした人々が、やがて戻ってきて、そうやってたくましく生きる日が、いちにちも早く来るように。

私には願い、祈ることくらいしかできないけれど。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。