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好きなものは好きと言おう 第1回「尾崎豊」 

 新シリーズの第1回に選んだボクの好きなもの、尾崎豊についてエッセイを書きたいと思う。目次は好きじゃないけど、一応載せておく。

あまりにも遅かった

 ボクが生前の尾崎の音楽に主体的に触れたのは3年弱ほどしかない。短期間で熱病にかかったような熱狂的なファンになり、それまでに出たCDを全て買い、詩集を買ったしビデオも見た。でもボクが22歳の時、彼はなんの前触れもなく26歳で突然世界から去り、ボクの心には大きな空虚ができた。それ以降、ボクの中の音楽の半分は尾崎の残した音楽になった。もっともっと新しい曲を聴きたかったし、コンサートにもいきたかったし、ユタカーって思い切り叫びたかった。テレビで歌う尾崎も見たかった。足りていない、今も昔も。尾崎を自分の中で認識するのが、あまりにも遅かった。もっと早く取り込みたかった。もう取り返しがつかない。

音楽との出会い

 ボクが尾崎の音楽に触れたのは高校を卒業して、働くという意味一つわかっていないのに、周りについて行くために就職した18歳だった。初めて親元を離れ、会社の寮に入った。一人っ子で核家族で育ったボクは、集団の中で暮らすのも、狭い寮の部屋で他人と暮らすのも初めてだった。それまでのボクはおこずかい月5000円で暮らす高校生で、バイトの経験もなく、買うものといえばファミコンのゲームと推理小説くらい。高校生の時に買った音楽といえば、まだカセットで買ったドヴォルザークの新世界と、薬師丸ひろ子のベストアルバムだけだった。クラシックは家に貰い物のレコードがたくさんあって、中学生から高校生の思春期の間、聴いていた。薬師丸ひろ子はボクより6歳上で、中学生の頃から憧れだった。高校生のボクは音楽に傾倒することはなかったのだ。

 音楽と縁がない生活、それが就職してガラリと変わった。
きっかけは短い間、同じ部屋で暮らした同い年の同期、そして呼んでいないのに部屋にわらわらとやってくる、同世代の同期たちだった。当時、5月に渡辺美里のribbonが発売になり、恋したっていいじゃない、と唄う美里がそこかしこから聞こえてくる。今まで自分が触れたことのないポップな音楽だった。そこでボクは音楽に目覚めたのだ。最初の頃のお給料で当時、市内にあったデパートに電車で出かけてSONYのCDラジカセを買い、重いそいつを持ち帰り、寮の部屋に置いた。CDに触れたのはその時が初めてで、最初に買ったのはribbonか、当時好きだったナンノちゃんのCDだった。CDラジカセを買ったことによりボクの世界は急速に広がった。当時売られていたWHAT's IN?とかCDでーたとかのCD情報誌を毎月買い、気になったCDを買いまくった。ボクのお給料の多くはCDに費やされた。

そんな中、尾崎の音楽に出会った。当時の尾崎はNYから失意の帰国後、有明でライブを行い、ライブアルバムを発売、そしてクスリで捕まり、小菅から出た後「太陽の破片」をリリースし、唯一のテレビで歌った夜ヒットに出演し、秋にやっとアルバム「街路樹」を発表し、東京ドームで復活ライブを行っている。当時、尾崎のことはテレビのドラマで聞こえてきた「卒業」の一節くらいしか知らなかったが、街路樹のリリースをCD情報誌で知り、興味がそそられて買った。

衝撃だった。たぶん。
「核(CORE)」や「・ISM」、詩の内容は難解で理解できなかったが、J-POPに傾倒していたボクは初めてロックに触れ痺れた。時期は忘れたが、テレビの深夜番組では尾崎の特集番組が放送され、あの胎児をイメージして膜を破りでてくる映像や、代々木のコンサートの映像が強くボクに強く影響を与え、「LAST TEENAGE APPEARANCE を始め、「十七歳の地図」「回帰線」「壊れた扉から」も次々に買った。その頃のボクは慣れない三交代での仕事や人間関係に悩んでいて、かなり参っていた。そんな中、尾崎は自由を歌っていた。どこにも逃げ出せず、自由になれない自分かららすれば、尾崎の音楽は救い以外の何者でもなかった。現場の計器室の端っこに置いてあったホワイトボードの裏側に、尾崎の歌詞をを延々と書きまくった。大人から見ればボクは、イタイ中二病みたいなやつだっただろう。今思っても、三交代から抜けて研究所に移るまでの苦しい4年を乗り越えられたのは、尾崎豊の音楽が心を勇気づけたからだと思う。

シングル「LOVE WAY」とアルバム「誕生」の発売


 そして、ボクがまだ三交代で苦しんでいた半ばの1990年秋、尾崎は沈黙を破り、2枚組のアルバム「誕生」をリリースする。このアルバムは大々的にコマーシャルで流れていたし、あの尾崎がオリジナルの2枚組アルバムを発売! 誰もが色めき立ったと思う。ついにリアルタイムな尾崎に触れられる、ボクは興奮していた。その期待が間違っていなかった、それを証明したのがアルバムの1ヶ月前くらいにリリースされた先行シングル「LOVE WAY」。後にも先にも、ボクの生涯で歌を聴いて鳥肌がたったのはこの曲だけだ。本当に身震いが止まらなかった。なんていう曲だ・・・ 多くの言葉を詰め込んだ歌詞、その激しい愛。本当にすごい。やっぱり尾崎って、すごい。これを聴いたらアルバム「誕生」も待ち遠しくなった。
そして、「誕生」先行シングルを含めた全20曲の2枚組アルバムだ。でも、このアルバムはボクの思っていた尾崎と少し違う気がした。もちろん「永遠の胸」や「誕生」はいい曲だと思う。でも、奇妙なことだけど尾崎がなんだか明るかった。もちろん重い曲もあるし、明るいことが悪いわけじゃないけど、あまりにも前作や前前作と違う気がした。
そう思ったので、このアルバムはボクの中のLAST TEENAGE APPEARANCEツアーのライブ映像を超えられなかった。

嘘だろ? 尾崎が死んだ!?

それから1年半、92年4月のことだった。三交代の夜勤を終えて、寮の食堂で朝食を食べていたボクに、後輩のシンヤがこう告げた。

「尾崎、死んだって知ってます?」

うそだろ・・・
ボクは夜勤上がりでその前日のニュースを知らなかった。
ボクはそれを最初信じられなかった。でもテレビでは尾崎が死んだことをどこの局でもやっていて信じるしかなかった。

ポカンと胸に大きな穴が空いた。心の支えの一部が急にいなくなった。
そんな経験、あなたにもありますか?

もうすぐニューアルバム「放熱の証」がリリースされる間際の話だった。
死後の尾崎フィーバーの中、なんとかこのアルバムを入手したが、ボクにはショックが大きすぎたのと、内容が難解でうまく聴けなかった。母親を失い、信頼する見城徹や須藤晃、そして最後にはアートディレクター田島照久とも決別して全てをセルフプロデュースした尾崎。本人にこの後の希望は見えていたのだろうか。ボクにはわからない。

護国寺の追悼式の大行列の中継はテレビで見た。ボクは行かなかった。

以降、尾崎のアルバムはライブ版の「MISSING BOY」と「約束の日Vol.1, 2」そして東京ドームでの復活コンサートの映像版であるLIVE COREは買った。今は何年か一度、節目の年にテレビの特集で尾崎の番組がたまに放映される。文字通り、伝説となってしまった。

伝説なんていらないんだよ。転んでも立ち上がれなくて寝ながら歌っても、尾崎の声を聞きたかった。全てがうまく行かなくて、たとえまた捕まっても、ボクは待っていたのに。いつまでも待っていたのに。じいさんになった尾崎でもよかったのに。なんでだよ。

いまも心の片隅を占領し、ときどき涙を流させる、尾崎豊はボクの特別の存在だ。

ボクが好きな尾崎の楽曲ベスト5

尾崎の曲は全部で何曲あるんだろう。調べたりはしない。そんなことをするのは無意味だからだ。死後にリリースされたコンピレーションは持っていないけど、大概の曲はCDを買って聴いた。その中から5曲を選んでみる。悩む。いい曲がいっぱいの中、今選べるのは7曲あるのだけど5曲に絞るよ。

No.5  ハイスクールRock'n Roll  1stアルバム「十七歳の地図」より
No.4  Forget me not 3rdアルバム「壊れた扉から」より
No.3  卒業 2ndアルバム「回帰線」より
No,2  LOVE WAY 5thアルバム「誕生」より
No.1  米軍キャンプ 3rdアルバム「壊れた扉から」より

 No.5に選んだハイスクールRock’n Rollは映像の印象が強い。多分、代々木オリンピックプールのLAST TEENAGE APPEARANCEツアーの映像だったと思う。

「ロッケンロール、おどろうよロッケンロール 腐らずに ロッケンロール 手を伸ばせば自由はあと少しさ」 

この部分がどうしようもなく好きで、20代前半いつも口ずさんでいた。 No.4に選んだForget me notはメロディラインが美しく、詩も壊れそうになりながらも二人の愛が溢れている。サビの部分が一番好きで

「初めて君と出会った日、僕は ビルの向こうの空をいつまでも探してた 君が教えてくれた花の名前は 街に埋もれそうな 小さなわすれな草」

尾崎のバラードの中で本当に美しい詩だと思う。No.3に挙げた「卒業」は心救われる詩と、自分も感じていた体制への不満を掬い上げてくれていると思う。この曲を聴くと、本当に尾崎豊は歌が上手いんだなと感じる。当たり前なんだけどね。僕は窓ガラス壊したことはないけど、自由の先を見てみたかった。一番好きな部分は最後の怒涛の問いかけの中の一部分だ。

「あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分に辿り着けるだろう」

ほんとにそう、今でも自問自答する。本当の自分に辿りつけているのかと。
No.2は「LOVE WAY」でこれはすでに上で書いた。

「真実なんてそれは共同条理の原理の嘘」

なんて言葉でてきますか、普通。いつ聴いても焦げ臭い匂いがしてくるすごい曲。
そしてNo.1はずっとこの曲、そう「米軍キャンプ」だ。当時尾崎は19歳。でこの詩。これだけでも感じるものがある。ほんとうにこの曲はすごいのだ。曲調はどちらかといえばバラードに近い。でも詩の内容は米軍キャンプ付近の繁華街を舞台にして、夜の商売を続けながら愛を探す二人の悲しい結末までを歌っている。詩を見るだけでせつなくて泣けてくる。

「時には二人の暮らしが夢さえ育んでいた 大切なものを引き裂く何かに二人が気づくまで」

ただただ泣けるし、この詩を書ける尾崎はなんと言って表現したらいいかわからないけど、愛が溢れていた人なんだろう、と思う。

以上、とても長くなってしまったけど、好きなものを好きと言おう、の第一回目、尾崎豊について書いてみました。いろいろな当時の背景は調べればわかるけど、そんなものは何一ついらない。これはボクが感じた尾崎豊なのだから。いまでも心のそばに生き続けている。



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