【競りゲー】『相場観』という言葉に頼らず言語化してみた
前書き
「競りゲームは難しい」とよく言われる。
そしてその理由として「相場観」という言葉が良くも悪くも便利に使われているように感じる。
今日は相場観 という言葉に頼らずに競りゲーについて感じている事、考えてきた事を言語化していきます。
前半はできる限り客観的に、後半に関しては次回作に向けたコンセプト作りと過去作の振り返りを兼ねてかなり主観的に書いていきます
そもそも「相場観=公的価値」が問われているゲームは少ない
そもそも、『相場観の有無』という要因は”大敗をした人の敗因”や”勝者と惜敗した人の差”としては適切でも”初級者と中級者以上の差≒ゲームの肝”としては適切ではないように思う。
かなり多くのゲームで、本当に行うべきは公的価値(皆にとっての価値=相場観)の精密な理解ではなく、自分だけがおいしい状態をどう作るか?つまり私的価値(自分にとっての価値)の差別化である
例えば、以下のような(ゲームではなく現実の)オークションがあった時、最も幸せになる人は誰だろうか?
(一応間をあけておきます)
答えはおそらく、Aさんだろう。普通にやっていれば3万円で10万円分の価値がある(と考えている)商品が手に入る。
競りゲームをプレイする時、まず、狙うべきはAさんの状態である。
もちろん、Bさんのような知識が伴っていれば、支出が減るのでさらに幸せになれる。しかし、それは初級者が最優先で覚える事ではない。
プレーヤーがやるべき事をまとめると以下のような段階になると思う。
Lv1:ルール、特に得点の体系を理解する
Lv2:1つでいいので最終系を考えて動く
※最終系=得点化の指針(この3か所のマジョリティーを取って勝つとか)
Lv3:得点や勝率の割に空いている得点源があればそちらにシフトする
:複数の最終系を見据える
差別化ができている人に楽をさせない
Lv4:他人と他人を争わせる
では、何故難しいか?
最強の一手を目指すゲームではない
最強の一手、例えば「TCGでどのカードが強いか?」等という問題は現代においては大して難しくない。一人で考える分には難しくとも、有識者に聞いて鵜呑みにすればすぐに習得できる。
競りゲーの値付けは最強ではなく最尤の一手を目指すものである。主張が通るのであれば最強の手は「降りる」か「最低金額上乗せ」だが、そうはいかないので最尤の一手として良い妥協点を提示する事となる。
また、値付けをする都合上、効果は一定でもコストが不定のため、「絶対取るべきカード」というのは存在しない。よって暗記、鵜呑みで学べることは少ない。
考える内容と最も表面にある問が一致していない
「いくら払いますか?」という大きな問を直接投げかけてしまっている。「どういう最終系を目指しますか?」⇒「何を重点的に狙いますか?」⇒「じゃあ、いくらまでなら出せますか?」といった算数のテストに出てくる文章題の小問ような誘導がされていない。
これをプレーヤーが自分で行えなかった場合、「空気を見て、1金あげるか降りるか言う作業」になりかねない
(残念なことに何度か別の卓で見た事がある)
プレイフィールが競りと異なる
現実の競りに参加する事は別に上記のAさんになる事じゃない。
何故、相場観と言われるのか?
じゃあ何故競りゲームが『相場観~』といわれるか 。
競りにおいて商品を手に入れるのは最も極端な値をつけた人。ボドゲ『クイズいい線行きまShow』のルールならば、マイナス点を食らうような人物である。参加人数が十分に多く十分に有識者がいる場合、彼が最も聡明な判断をした可能性は極めて低くなる。
非常に厄介なことに落札者より聡明なものがその値付けに対抗する手段は(作者が特別用意しない限り)その場にはない。 まぁ、ストレスの種にはなるよね。潤滑油として『相場観~』という優しい嘘のフォローが必要な場はまぁ、ある。
結局、競り(オークション)は愚かさと隣り合わせだし 1人用、2人用以外のゲームは、(見えやすさや割合の違いこそあれど)他人のミスが理不尽に自分の敗因、勝因になる可能性を含む。
『プレーヤーが漁夫の利(やその逆)を許容するか否か?』
この問の答えが『Yes』にならん限り、競りゲーを中心とした90年代ドイツ風の”見えるインタラクションを楽しむ部類のゲーム”の復権は無いかと思う。
現状は『No』とまで言わないが、2極化するゲームシーンのコアユーザー側ですら『インタラクション(≒相手)ではなくゲームを攻略したい』、もしそうでないなら『わかっている人同士のCloseな場で』になっている気がしてならない。
どこをカジュアル勢に推したいか?
ネガティブな感じで終わるのも嫌なので、少し前向きな話を追記しようと思う。ここからは上記以上に個人の考えとして記録しておきます。
なお、以下に書くような主義で作ったゲームを一応貼っておきます。
ハードルさえ越えれば共感を生むものである
お互いに落としどころを探り、「この金額ならもう下りるでしょ」という金額をコールする。そのため、ただの「8金」という値付けから「完全に同じこと考えてたな」という共感が生まれる
「TCGのような上を目指して、仮説検証をし、探求」というより「ゲーマー同士の共感を生む場。感覚を共有する場」としての機能は他ジャンルと比べても高いと思う。
モチーフとして非日常でごっこ遊び感がある
1990年代、経済学に精通したクニツィアやその影響を受けた方々によって競りゲームはドイツゲーム(≒”相手の事も考えるゲーム”)の中心になった。
しかし、その前の伝統ゲームの時代において競りはシステムというよりはごっこ遊びを盛り上げるためのモチーフだった。かなり古いものだとゲーマーズゲームとしての考えどころは薄く、システム的に言えば絵柄の違う宝くじを(効果ではなく絵が好きかどうかで)を競り落とし、当たるかどうかを一喜一憂するだけのものもあったらしい。そんなのプレイする意味があるのかと私は思ってしまうが、どうも十分にプレイされていたらしい(歴史にはあまり興味が無く詳しくないがなんかモーツァルトもやってたらしいですね。知らんけど)
オークション会場というシチュエーションは十分に非日常であると同時に日常的にやっている買い物の延長線上にある。
「素敵な商品が出てくる。だから大金を出してでも手に入れる」という欲求の流れは誰にでもわかる。上記に問題点として書いた「いくらか?」をいきなり聞いてしまっているという点もこの流れに乗って「どれが欲しいのか?」を先に聞く流れに変換可能であると思う。
グラフィックに凝る事ができれば十分に見栄えのするゲームにもできると思う。
バトルである
世界観はモチーフだけでは決まらない。そのモチーフをどう演出するかも同じくらい大事である。例えば漫画ならモチーフが同じ料理でも演出が”バトル”なら「究極と至高に分かれて親子で勝負する」とか「食戟という仕組みで上級生に挑む」といった某漫画のような内容になる。表現が『高校生ぐらいの女子数人が趣味を通じて交流』なら全く別の漫画になるだろう
90年代ドイツゲームは(過去への反省やプレイ人数の都合で)対戦ゲームでありながら、協調がフォーカスされているように思う。それでも対戦ゲームにおいて”バトル”は最もスタンダードで親和性の高い表現である。
競りの中でも最も基本的なルールは ”ラストマンスタンディング(1人勝ち)”の”バトル”である。
同じゲーマーズゲームでもリソース管理に主軸を置いたゲームと違い、資源を金のみにできる。世界に”金”という資源のみを用意し(札束やメタルコインといったコンポーネントでそれを強調し、)、その過多のみで結果が決まる”バトル”を演出する。
競り上げや公開時の一喜一憂に熱を持たせる事は十分に可能であると思う。
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