日本が高齢社会になっても大丈夫と感じる訳
アメリカ人と話していて気づいたこと
アメリカ人の友人とある下町でレビューがすこぶる上々な定食屋に行った時のこと。友人が、
「こんな歳になっても働いている・・・。かわいそうに」
というので、何のことかと聞くと、忙しなく働く定食屋のご主人とおかみさんを指してのコメントだった。高齢になってもリタイヤすることもできず、経済的に働くことを余儀なくされているのだろう、という思考回路らしい。
それを聞いて私は「スッゲーアメリカ的価値観!!」と異文化に触れた気がしてなんだか嬉しくなってしまった。だって、年老いた定食屋のおやっさんを見て、「若いな」とか「元気だな」と感じる人はいても、「かわいそう」と評する日本人は少ないだろうから。
これまでも彼女と話していて職業観の違いを感じることは幾度もあった。例えば会社を辞めるのにアメリカでは早くて2週間前に言うのが常識の範囲だとか。(彼女の前職は大手証券会社)
ちなみに私が「日本では有休消化も含めると大体3ヶ月以上前に会社に言うよ」と話したらまじで腰を抜かしそうになっていた。
裏を返せば日本人は根っから「何のために生きるか」は「仕事のためだ」と刷り込まれているとも言える。近頃は、FIRE(経済自立による早期退職)を達成した若者の出現や、コロナ禍を経て家族の時間の大切さに気づいたという人が増える一方で、依然として働くことに対して、この国には信仰ともいうべき圧倒的な”働くことへの美徳”があるようにも思える。
それは、「労働者が搾取されているのに刷り込みによって美化されている」とか「日本人が文化的に欧米から遅れているから」とか「働き蟻を量産するような教育システムだったから」だとかいうネガティブな意味ではなく、とてもポジティブな意味合いで語られるべき特徴だと思う。(確かにこの美徳が抱える資本主義の闇も深いとは思うけど、それは一旦おいておいて)
例えば、"死ぬまで働く"という言葉を”サラリーマンを永遠に続けること”と定義づけた途端に絶望の淵へと追いやられる。しかし、”働く”を”好きなことでお金を稼ぐ”に置き換えてみるとどうだろう。
「死ぬまで好きなことしてお金を稼ぐ」
それってつまりikigai
そんなことを考えていたら、すでに7年も前に同じことを言ってる人がいた。しかも日本の外で。300万部も売れてる著書の話を自分の発見みたいに豪語した自分が恥ずかしい気もするが、マクドナルドの旨さに明日気づく人間もいるのだ。評判とは後人の咀嚼の積み重ねである。知らんけど。
著者のガルシアさんを取材したサイトによると、
前回、趣味について書いた通り、趣味にもアウトプット(生産)型というのがあって、私の知っているシニアはこの生産系の趣味が充実している人が結構多い気がする。家庭菜園で野菜を作ったり、陶芸や手芸で作品を作る人など。
とある年上の友人は、還暦を機に調理師専門学校に入学しそのままフランスに留学して、帰国後は会社時代に培ったグローバルなマーケット感覚を生かして訪日外国人向けの料理教室をしようかなと話していた。60歳はシニアの入り口。そこから20年ぐらい働けると考えると学校に通うことも回収可能な自己投資になるという。
こんなふうな話を聞くと、日本の高齢社会は必ずしも悲観すべき側面だけではなく、生産的なパワフルシニアの時代がやってきているとも言える。
正直国のリーダーや大きな会社の経営層など、既存の権力層は若い人たちにその職場を譲ってほしいと願ってやまないが、年を取っても自分の食い扶持をつなぐ程度の小さな稼ぎを健康に続けていけるなら、成熟社会としては十分なんじゃないかと思えてくる。
これからは
シニアYoutuberも
シニアイラストレーターも
シニアプログラマーも
シニア起業家も
まだまだ増える。
そして思う。
それらの人は「かわいそう」ではない、と。
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