なぜ文系が役に立たないと言われるのか:「大学で学んで役に立つこと」と「制度」からの考察

私は学部は工学(&アメリカンフットボール)、修士は経営管理学を専攻したので文系と理系の世界のどちらも触れました。(私自身文系・理系という言葉が大嫌いですがあえて使っています。この記事では「文系=人文社会科学系」「理系=自然科学系」の意味にします。)

その中で昨今の文系不要論の中で文系が誤解されているところがあるのではないか、と感じるところがありこの記事を書いてみました。

1.はじめに
2.大学で学んで役に立つこと
3.文系と理系に定められている制度の違い
4.問題点
5.文系が持つ可能性
6.まとめ


1.はじめに

昨年の9月ころに文部科学省から出た国立大学の文系学部廃止の話題が非常に盛り上がったことなど、最近大学の文系学部の存在意義が問われる機会が多くなっています。

なぜ文系がいらないと思われているのかについて、「大学で学んで役に立つこと」「制度」の観点から見てみた考察を書いてみたいと思います。


2.大学で学んで役に立つこと

そもそも社会に出た時に、大学で学んで役に立つことってなんでしょうか?

理系出身の人に意見を聞くと、「仮説 ⇒ 実験 ⇒ 検証」というプロセスを繰り返すことによって手に入れた『考える力』が役に立った、と答える人が非常に多い気がします。

では文系の人は『考える力』が身につかないのでしょうか?

先に結論を述べてしまうと、文系には文系ならではの『考える力』を身につけることができるはずだが文系では理系よりも『考える力』が身に付き難い環境にあるのではないか、と考えました。

それは、文系と理系の「分野の違い」ではなく、文系と理系のそれぞれに定められている「大学の制度の違い」が大きく影響を及ぼしているのではないか、ということです。


3.文系と理系に定められている制度の違い

実は、大学の学部が抱えなければいけない教員の数や教室の面積などはある程度「大学設置基準」という制度で定められています。

簡単にいうと、この制度では
・同じ教員数の場合では理系の方が定員を少なくしなければならない。
・同じ定員の場合では理系の方が教室の面積を広く設定しなければいけない。
というような基準が定められています。

たとえば専任教員数が14名の場合に設定できる最大収容定員は、1学部に1学科しかない構成の場合、法学、経済、社会などは800名なのに対し、理学、工学、農学は400名となっています。

もちろん、あくまで最低基準なので文系学部が理系学部よりも教員数を増やして教育を行っても良いのですが、大学側が経営効率を考えた場合には、基準限界まで多くの学生を受け入れた方が良いので必然的に文系学部の方が教員一人当たりの学生数は多くなります。(この例では2倍になります。)

実際に早慶MARCH日東駒専の商学・経済・経営系と工学系の学部、大学院の専任教員数一人あたりの学部生&院生数を調べてみると以下のように、商学・経済・経営系が平均45.9人、工学系が平均27.7人と、やはり工学系の方が少人数教育を行っていることがわかりました。(国立を入れなかったのは理系に多額の補助金が出ていて非常に教員数が多くなっており、比較できないからです。)

工学系は設置していない大学も結構あったのでサンプル数が少なくなりました。
注意点として、専任教員数の数え方などは各大学で異なるのでこのデータは各大学間を比較するものではなく、あくまで参考値として捉えて頂ければと思います。

(参考までに、京都大学経済学部&研究科は32.7人、一橋大学商学部&研究科は27.3人、一橋大学経済学部&研究科は34.9人でした。)

また、理系と文系の収容定員が同じ200名とすると、文系に求められる教室の面積(基準校舎面積と言います。)は2,644㎡ですが、理学4,628㎡、工学5,289㎡、農学5,024㎡と広く設定されています。


4.問題点

以上のデータにより、日本の文系学部は理系学部よりも教員一人あたりが多くの学生を指導する状況となっていることがわかりました。

さらに文系は理系よりも一人あたりの教室の面積が狭く定められています。

この二つのことから、
「文系では教室に大人数を詰め込んで講義をする傾向が多くなる」
といえるのではないでしょうか?

そして、これは『考える力』が身に付きにくい環境だと言えます。
なぜなら『考える力』を向上させるには、自分の意見・仮説・論理に対して様々な角度から議論をし、何回もブラッシュアップしていく経験が必要であり、そのためには教員を含めて少人数で議論できる環境が必要不可欠だからです。

文系も一人あたりの教室を広くし、教員一人あたりの学生数を理系並み減らすことができれば『考える力』を身に着ける教育ができるのではないでしょうか?

(例えばアメリカの文系名門のイェール大学は教員一人あたりの学生数は4人未満で、これは日本の理系よりも少なくなっています。)

もちろん、学費も理系に近くなってしまいますが、「制度」によって生じている問題が、「文系という学問分野」の問題として捉えられている現状を打破するには、それもやむなしとする考え方もあってよいのではないでしょうか?

私がそう思うのは文系には理系とは別の非常に素晴らしい考え方があると思うからです。


5.文系が持つ可能性

極論を言うと、理系は「自然界に存在する数値」で論理を示すことができます。(もちろんそう単純でないことは重々承知しています。)
例えば、温度T、電流I、圧力V、などです。

しかし文系が扱うものは「人が作り出した数値」であったり、「数値化できないもの」です。
なので文系の場合はまず、「その数値化の方法は正しいのか」、「その数値で本当に論理が証明できるのか」、「数値化しないでどうやって論理的に証明するのか」という問題から直面せざるを得ません。

これまでの先人たちはこのような問題に対してどうやって論理的に証明するかの知恵や作法を積み上げてきてくれています。
先人が考え出した、証明するための知恵や作法を学び身に着け論理的に使えるようになること、これは文系が学ぶべき最も重要な『考える力』だと思います。

例えば社会学では、人が作り出した数値を扱う研究(量的研究)であれば統計調査法など、数値化できないものを扱う研究(質的研究)であればナラティブ分析、エスノグラフィー、参与観察、GTAなどです。

それぞれの解説はここではしませんが、これらの知恵や作法ってマーケティングやデザイン思考において物凄く重要なスキルです。

文系だからこそ身に着けられる『考える力』によって、数値化されていない・数値化できない問題を発見し、解決することができるようになるのではないかと思います。


6.まとめ

・文系が役に立たないと言われるのは、文系自体が悪いのではなく、文系学部に定められている制度によって、文系ならではの『考える力』が養われにくいからではないか。

・文系ならではの『考える力』には理系とは違う素晴らしい可能性があるのではないか。

という内容でした。

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