四文字のお守り

※血、傷、家庭内暴力、過度のストレスに触れる部分があります。調子の優れない方や苦手な方は読まないでください。






 どうせストレスだろうと受診を先延ばしにしていたら、とうとう職場で血を吐いてしまい、そのまま倒れて人生初の救急車を体験することになった。
 倒れたのは具合が悪かったからではなく、自分の血を見て気を失ったのだということは救急隊員の方にだけこっそり伝えた。血が苦手なことは特別恥ずかしいことではないと分かってはいるが、一応部下もいる手前、自分の苦手なもの、特に自分の内面に深く関わるものについてはあまり知られたくなかった。

 病院に着くと診察や血液検査などを言われるがままにこなし、病室へ戻り休んでいると訪れた看護士から明日内視鏡をしてそのまま手術になるかもしれないから家族かどなたかに立ち会ってもらいたいのですが、と伝えられる。
 その理由は分かっているが、このご時世でまたそんな、私はもう社会人だしとっくに成人も済ませて立派にやっているのに、となんだか荒んだ気持ちになるのは身体の調子に引きずられているのだろうか。
 戸籍上の家族はいる。自分が長男の枠にいて、両親共に生きている。自分が最も弱みを見せられない相手だった。
 せっかくわざわざ離れて住んでいるのに、こんなときに連絡してしまったら後がどうなるか分からない。万全の準備をして会ったとしてもその後数日寝込むほどに気を使う相手だ、手術前に会いたくない。
 ともすれば近くに住む友人たちだが、それぞれ家族旅行や帰省などゴールデンウィークをしっかり楽しんでいるはずだ。自分の家族の都合で友人たちの家族水入らずの時間を邪魔するわけにはいかない。
 同僚も脳裏をよぎったが、家庭の事情を知られたくない。家族の代理で手術の説明に立ち会ってもらうならある程度理由を説明したいが、どこから切り取っても重い話になってしまうしあまりに自分の内面に関わりすぎている。少年漫画のキャラクターのような言い分になってしまうが、そう簡単には話したくないのだ。今の職場が居心地良いから尚更だった。
 サービス業の友人なら仕事だろうが、偶然明日だけ休みだったりしないだろうか。そもそも近くに住んでいるサービス業の友人はいないのだが・・・・・・いや、友人になった人ならいた。
 時間に融通を効かせてくれそうで、家族の事情も知っていて、自分が気を使いすぎない相手。
 久々に開いたLINEのトークは空っぽで、そういえば別れたときに勢いで消したんだったか、と口の中が苦くなる。友人になったと思い込んでいるのは自分だけかもしれない。
 「明日は休み?」と送ると数分後に「そうだけどどうかした?」と返ってきた。話が早くてありがたい。「手術するかもしれなくて」と送信してすぐ既読が付き、iPhoneの画面が暗転して彼女の名前が現れた。
 個室だしいいか、と緑の通話マークを押す。
「もしもし」
「どこの病院?」
 挨拶すらせず本題に入るあたり怒っているのかと思ったが、彼女の声が震えているのに気付いて胸が痛くなる。ごめんね、と小さく呟いたがマイクに入らなかったのか彼女が無視したのかは分からなかった。

 点滴されてうとうとしていると、個室の扉が開く音。スーツ姿は見慣れていたはずだが、数年経ったせいか弱っているせいか記憶の中の彼女よりも美しかった。
「綺麗になったね」
「あなたと別れたからね」
 相容れない言葉の声音が優しくて、思わずふふっと笑ってしまう。コツコツとヒールの音が響いて彼女がベッド脇の丸椅子に座った。
「体調はどう?」
「大きな問題はないよ」
「そう。小さな問題について聞いてあげる」
 彼女は入院服を着た私をまじまじと見てため息をついた。大きな怪我などではなく安心したのかもしれない。病状も聞かず電話を切ったのは彼女だが。
「胃薬飲んではいたんだけど仕事中血を吐いてしまって」
「ストレス?」
「手術で治るものならいいんだけどね」
「一度きちんと病院に行ったほうがいいよ」
 ここも病院だよと返そうとしてやめた。彼女が勧めているのは精神的なケアだろう。いい会社で働いていて信用を得ても、寄付をしても車を買っても、どれだけ丁寧に暮らそうと異物のように胸につかえるものがある。先延ばしにしてきた問題は、どれだけ離れた暮らしをしようとも今もまだそこにある。
 成人した頃、カウンセリングには通っていた。ありがたいことに先生との相性がよく、話すうちに自分の今までが整理されていく感覚があった。回数を重ね、回想が進み、その瞬間にたどり着いたときに私は先生の質問に答えられなかった。呼吸が荒くなり、言葉が出なくなり、代わりに涙が溢れた。今の自分ではその瞬間を解釈できないのだと思い、勝手に通院をやめてしまった。
 その話を人にしたことはない。自分と向き合うことに頓挫したと言われても困るだけだろうし、その続きを求められても覚悟ができていなかった。
 色々と落ち着いたしそろそろとは思っている。ただ、きっかけがなかった。これもひとつの転機なのかもしれない。

 ノックのあと、医師と看護士が入ってきた。彼女は関係性を聞かれて「恋人です」と即答した。この年齢でその言葉を出せば第三者にもある程度信頼してもらえると互いに理解していた。
 わざわざ彼女が呼ばれた理由は分かっている。内視鏡検査で家族の署名はいらないだろう。医師は腹部に刺し傷があること、治療歴について知りたいこと、そして傷の周りに新しい傷があり皮膚の状態が良くないこと、これから皮膚の治療を行い明日消化管の出血があれば止血はするが他にも治療の必要性があるかもしれないことを淡々と話した。比較的新しい傷についての話が出たところで彼女がはっと息を呑むのがわかった。短く切るようにしている利き手の爪が少し伸びて、爪の間が皮膚と血が汚れているのをぼんやりと眺めていた。

 彼女の前で現在のかかりつけや本当に一人暮らしであるかなどの質問に答え、その様子から問題が火急のものではないと判断されたのかそれ以上探られることはなかった。そういえば小さい頃にも似たような場を設けられて嘘に嘘を重ね乗り切ったっけな。正しく乗り切れなかったからこうなっているのだが。
 あの頃は幼い妹と猫がいて、辛かったのはスケープゴートにされた僕と猫だった。僕がいなければ猫は蹴り殺されていただろうし、猫がいなければ僕は傷だらけの身を投げていただろう。とある事情で妹にとってはそこまで悪い環境ではなかったから、だから僕は嘘をついた。その頃の僕は同年代より少しだけ賢くて、大人を騙すのにとびきり慣れていた。ぎりぎりのバランスで保たれていた家庭だったが、そのままでいられるならそれでいいと思っていたし僕が保護されれば妹が無事でいられるか分からなかった。先に家を出てからも、両親が縁を切った親戚の家へ菓子折りを持って挨拶に行き、妹の逃げ道確保に努めていた。大切にしていた妹からは次に顔を合わせることがあれば殺すと言われ、私の手元には何も残らなかった。それでもきっと、これでよかったのだ。後悔ではなく虚しさならば色んな手段でごまかせるから。

 彼女も似たようなものだった。彼女の場合は金のトラブルが続き、成人前から自分の名前で様々な契約をさせられては親が踏み倒すものだからブラックリスト入り。家を借りるのにも苦労していたから、出会って互いの事情を知ってからは私が保証人をしている。私は親と連絡を取りたくないから保障会社に金を払い、彼女には生身の人間が必要なときに連絡をしていた。
 いつしか境目が曖昧になり、必要性の低い頼み事もするようになった。理由もなく共に過ごす時間が増え、互いの家に寝泊まりすることが多くなった。スーパーで卵を買ったり、本屋で彼女が読んでいるコミックスの最新刊を見つけて連絡したら既に持っていたり、干したての布団の匂いも彼女が出勤した後の枕の香りも、それがずっと続けばいいと願ってしまうくらいには居心地がよかった。
 互いに大切には思っていた。望むものが違うことも分かっていた。私は永遠に日常を繰り返していたかったし、彼女はさらに先に進みたいのだろうと理解してしまった。
 私は自分が家庭を欲しがっていないのだと気付いてしまった。
 もう、これ以上手に入らなかった安寧に向き合う気力がないのだ。荒れ果てたあの時間から抜け出してここに来るまで、蜘蛛の糸を手繰り寄せるような必死の選択の繰り返しだったのだ。誰かと人生を共にするという決断がスタートラインなのは痛いほど分かっている。分かっているし、自分がうまくやれなかった場合のなれの果てがどれほど酷い地獄になるかは身体に刻み込まれている。日々の中で気を緩めた瞬間に母のような高圧的な物言いをする自分と、あるいは力のままに相手を意のままにしたいという父のような暴力的な自分と目が合っては気力でねじ伏せているのだ。自分が誰かを傷つけないように、自分の奥底の本質を何度も何度も、できるだけ丁寧に殺して黙らせて、学びをもとに考え抜いた自分の理想像の通りに振る舞っている。数十年も四六時中そんなことができるわけがない。
 カウンセリングを再開することも考えた。だが通院して家庭を欲しいと思うように必ずなるわけではなく、ましてや何年後のことかもわからない。そんなことに彼女を付き合わせるのはあまりに我儘だな、と思ったし、当時はまだ自分自身の問題を先送りにして仕事を頑張りたい時期だった。そうして一年半ほど前に別れを告げ、彼女も特に話し合いを求めることなく受け入れた。様々な保証人になっていることは問題ないかとだけ聞かれ、そこはそのままでいいし何かあればサポートすると答えた。彼女のほっとしたような、少し悔しいような顔が印象に残っていた。

 困難を乗り越えるのに力を使い果たしてしまった。その疲労感に浸かっていると医師は「では、また後ほど傷の処置にまいりますので」と病室を後にした。彼女のお辞儀が美しくて、はらりと落ちた前髪が人間らしくて、彼女の生き様の魅力が詰まっているな、なんて思いながら病院の匂いがする枕に頭を沈めた。
「傷、いつからなの?」
「いつからだろうね」
「真面目に答えて」
「真面目だよ。真面目に、どうだっていいんだ」
 そんなこと言わないで、と彼女が椅子に腰かけた。私は点滴されていない方の手で目元を覆った。
「もう疲れたんだ。頑張って人並みを手に入れたって、俺は俺であることから逃げられない。忌まわしいことに、現実から目を逸らしていたあの頃と同じ自分なんだよ」
 腹の上に乗せた点滴されている側の手の甲に、彼女の手が重なった。
「今日泊っていいか看護士さんに聞いてくるね」
「・・・・・・何言ってんだ。必要な手続きがなければ帰ってくれ、来てくれたことには感謝してるけどもう用はないだろ」
「あなたはそうかもしれないけど、私は用があるよ」
「俺はそれを済ましてやれないんだよ。分かってくれよ」
「じゃあ近くのホテルに泊まるよ。それなら私の勝手でしょ」
「もうやめてくれ。本当に、申し訳ないとは思ってるんだ」
 少し強い語調を選ぶと、彼女の心が折れた音がした。俺のために意固地になってくれていることは分かっていて、でも彼女のためにも受け入れることはできなかった。それでも心を開いたうえでの言葉を拒絶されることが辛いことなのは想像に難くない。
「本当に、ダメなのかな」
「ごめん」
 手の上にのせられた彼女の手のぬくもりが、すっと引いていった。
「出会わない方が楽だったのかな、なんて言ったら笑う?」
「君が保証人に困るからね。保証会社を使う金があったら返済に充てた方がいい」
「あなたのそういうところが嫌い」
「それでいい」
「本当に嫌い」
「もっと上手に利用してくれよ」
「うるさい泣き虫」
「最近はそんなことなかったんだよ」
「ナースステーション寄って必要な書類があったら書いておくから。それでいいでしょ?へたくそ。馬鹿。もう知らないから。おやすみ」
「ありがとう」
 さよならではなくおやすみを選んでくれて。彼女が勢いよく病室の扉を開けてそっと閉める音を聞き届けて、すっかり湿度の上がった目元から掌を剥がした。
 虚しさならごまかせるなんて、誰が決めた人生指針だっただろう。ごまかすために他人を巻き込むことができない自分であることはとっくに分かっていたはずなのに。
 いろんな誘惑と出会う度に諦めて、虚しさと向き合って、その繰り返しで生きていくんだろうか。そんな日々はいつまで続いてしまうんだろうか。
 なぜ泣いてしまったんだろう。きっと悲しかったからだ。
 穏やかな日常を夢見てがむしゃらに生きていたあの頃の方が健全だったかもしれない、なんて考えてしまうのは悲しいからだ。
 大切な人からもらった四文字をお守りに、全てを諦めて僕は眠りについた。












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こんばんは、幸村です。
今人生で一番楽しいのですが、幸せを隠す癖がついていてつい悲しい振りをしてしまいます。


  

大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。