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歌物語1「よそにのみ」(新古今集恋歌1)

 気高い彼女には潤うほどに瑞々しい紫が良く似合う。

 内裏が火に襲われたあの夜、真っ先に避難するべき彼女が立ったのは燃え盛る陰明門の真正面だった。内裏が火事の脅威にさらされるのは初めてで、誰もがパニックに陥っていた。そんな中でも比較的冷静だった数名は、火の前に立つ彼女の姿を見出して、避難させようとした。中には彼女を聞き分けのない小娘と見て、抱き上げて場所を移そうとする者もいた。そんな男の手を軽やかに躱し、腰の入った拳一発で男を這いつくばらせた彼女は、こちらを向いて言った、「打ち壊せ」と。

 誰もが理解をしなかった。炎に照らし出される彼女の姿が神聖さすら帯びているようで、きっと誰も彼もが酔ってしまったのだろう。いと尊き御方の伴侶となるべく入内した彼女の唇から溢れる「打ち壊せ」という言葉は、まるで現実とは思えなかった。

 業を煮やしたのか、彼女は再び炎と向き合った。そうして手近な高欄に蹴りをあびせへし折った木を片手に、炎に包まれた陰明門の周りの建物をガンガン叩き始めた。
 最初は呆気に取られていた人たちも、彼女の意図をようやく察し、延焼を防ぐための打ち壊しを始めた。女房の1人は彼女の手から高欄の一部だったものをそっと受け取ると、今度こそ彼女を避難に導いた。今やその場にいるほとんどの者が自分のやるべきことを見出していた。すると彼女は一応の及第点をくれたのか、ぐるりとながめ渡して「ふん」と鼻を鳴らし、小袿の裾を微かにフワリと宙に揺らして向き直り、その場を後にした。

 僕は一部始終を見ていた。その時の僕は全くのパニックで、何をしてよいか分からない愚かな者の1人でしかなくて、そしてそうした者たちのほとんどがそうだったように、彼女の姿に心を打ち抜かれた。
 僕が周りと何か違うのかと聞かれれば、ほとんど違わない、と答えるだろう。ただ僕は、あの歌を知っていた。あの時、皆と同じ場所に立ち止まりそうだった僕の足を一歩だけ、進めてくれたあの歌を。
 
 よそにのみ見てややみなん葛城やたかまの山の峰の白雲

 踏み出した僕の目の前で、廊の一部が崩れて落ちた。僕は何かを叫んでそのままかけ出した。白雲のような煙の中、目の端をかすめた紫を必死で抱き寄せて、覆い被さった。

 背中に飛んでくるものが無くなって、僕は顔を上げた。目の前には彼女の顔があった。玉体に触れた恐れ多さに身体が硬直し、一気に汗が吹き出た。

 顔を顰めていた彼女がうっすらと目を開けた。二、三度瞬きすると、目が合った。すると彼女のこぼれそうに大きな瞳は猫のように弧を描いて、間抜けな顔をしているはずの僕の顔を見つめたのだった。

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