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古典の入門7『知ってる古文の知らない魅力』鈴木健一

 『知ってる古文の知らない魅力』は高校で古文を習った人向けの本だ。例えば古典に興味のある学生や中高の先生など。『徒然草』の序文を「誰でも知っている」と断じられて「まあそうだよな」と思える人、と言ってもよかろう。
 ややハードルは高いかもしれないが、本書は知的な面白さに富んでいる。その面白さを鈴木は

ひとつの表現が作品から作品へと旅をしていく魅力、いわば表現の連鎖の面白さ

本書「はじめに」より

と説明する。

 どういうことか。それを分かってもらうには具体例を示した方が早いだろう。ネタバレになってしまうが、「はじめに」のみとするのでご容赦いただきたい。
 鈴木が「はじめに」で取り上げるのは『徒然草』の冒頭だ。

つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 国語教師にとっては確かにお馴染みだ。生徒に暗唱させる場合もあるかも知れない。『徒然草』の特徴が現れていると考える人もいるだろう。
 しかしこの表現には、言わば「元ネタ」がある。兼好法師の完全オリジナルではないのだ。

 鈴木が取り上げるのは『和泉式部正集』。兼好法師の生きた時代をさかのぼること300年。藤原道長の時代に圧倒的活躍を見せた女流歌人の歌集だ。

いとつれづれなる夕暮れに、端に臥して、前なる前栽どもを、唯に見るよりはとて、物に書きつけたれば、いとあやしうこそ見ゆれ。さはれ、人やは見る(後略)

 国文学に馴染みがない人であれば、ここでもうグッと鈴木の知見に興味を引かれるだろう。「つれづれなる」「書きつけたれば」「あやしうこそ」という表現が似通う。歌人でもある兼好が『和泉式部正集』を「読まなかったとは思え」ない、と鈴木は言う。確かにそうだ。読者はその「知らな」かった情報に驚き、そして納得がいくだろう。
 名文として暗唱したあの言葉たちは、残念ながらその全てが天才兼好の生み出した言葉である訳ではなかった。ん、「残念ながら」?
 違う。「残念」ではないのだ。鈴木は言う。

文学作品は、過去の作品表現の集積によって成り立っている。すぐれた作品はその上に新しい価値を付与したものだ。

 そうなのだ。和歌でいう「本歌取り」を引くまでもない。そもそも完全にオリジナルの作品など存在しない。同じ言語を用いていると言う時点で、誰かの作った言葉を使って書いていることには違いないのだから。そうであるなら、より優れた言葉を利用することは文学の方法としてあるべきではないか。

 むろん、過去の言葉だけで作品を作れば、古代世界とは言え非難の対象となる。少なくとも名作として評価されることはない。名作となるには過去の言葉に「新しい価値を付与」せねばならない。
 兼好のもたらした価値は何であったか。鈴木は「ものぐるほしけれ」という部分を取り上げて次のように言う。

 「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつ」けていると、それで心の中のもやもやしたものがおさまっていくかと思いきや、そうではなく、ますますなにか異常な感じが高まってしまって、自分ではどうしようもない状況だというのです。
 そのように内省的な態度をどこまでも突き詰めていくこと、それが『徒然草』のオリジナリティーでした。

 「ものぐるほしけれ」に見出される内省的態度の追求。それが兼好の個性であり、新しい価値であり、読者である我々が「知らない魅力」であった。

 そして文学作品は、力のある名作が生み出されればそれで終わり、ではない。鈴木は

すぐれた文学作品が生み出されると、それが規範となって、後代の作品表現の形成に影響を及ぼす。

という。そして示されたのは江戸の井原西鶴。その『西鶴織留』という、名作『日本永代蔵』の続編的作品の一部だ。

風はかたちなふして松にひびき、花は色あつて物いはず。まなこにさへぎることは心に浮かび、思ふこといはねば腹がふくるるといふは昔。やつがれがちいさき腹してつたなき口をあけて、世間のよしなしごとを筆につづけて、是を世の人心と名づけ(下略)

 「風は…」以後、伝統的な表現に即して、つまり古人の情緒に寄り添いながら文を綴った西鶴が「世間のよしなしごとを筆につづけて」と述べたとき、念頭には確かに兼好の言葉があったのだろう。兼好が数百年前の優れた表現に新しい価値を付与して名作となった『徒然草』は、更に数百年後に生み出される文学の土台となったのだ。何とも胸の熱くなる話である。

 『知ってる古文の知らない魅力』は、他にも『源氏物語』や『枕草子』に見られる表現が「作品から作品へと旅をしていく」様子を教えてくれる。国文学者が楽しむ世界の一端をのぞかせてくれていると言っても良いだろう。文法と暗唱と人生訓の先にある、古典を読むことの面白さを知的に示した名著である。

 

 

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