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古典に、参加せよ

 古典は楽しくない。

 その通りです。古典を面白いと感じる人など、多数派であるわけがない。古典と呼ばれる作品の執筆者は僕らをターゲットとして書いてないし、僕らは彼ら作者たちが当然共有していると考えている常識を知らない。古典がむき出しのままそこらへんにポコンと置いてあったとして、その内容が僕らの心に刺さる訳なんてないんです。

 そしてそれは、教科書に載っている作品が1000年前のものだから、というわけじゃない。1000年どころか100年前の作品だって、感情移入しながら読めるとしたら、その知識と想像力は相当なものです。

 そしてもちろん、古典は正直しんどい、という感覚は、現代に限ったことじゃない。例えば西暦1200年ごろの人たちだって、その200年前に書かれた源氏物語などについて、理解に苦しむ部分、共感を阻む部分に悩みながら読んでいたんです。どの時代でも、古典は素直な共有を阻むものとして存在し続けてきた。

 そんな孤高の存在の様に思える古典たちは、それじゃあどうやって生き残ってきたんだろう。読むこと自体が一苦労の古典、読み手を選ぶ古典。決して自分から読者の方へ降りてはきてくれない古典。「読み継がれてきた」なんて簡単に言うけれど、本当に読まれているだけで、現代まで生き残って来たんだろうか。

 そうじゃ無いんです。古典は読み手によって生かされてきたんじゃあない。古典を生かしてきたのは常に作り手です。二次創作、模倣、パロディ、翻案。日本に文学が生まれて今にいたるまでの千数百年間、古典を生きながらえさせてきたのは、古典を自らの創造力を発芽させる手がかりだと定めたクリエイター達でした。古今集から伊勢物語を、伊勢物語から源氏物語を、源氏物語から和歌を、新古今集を。読み語り受け取り真似し、それを土台に「今、ここ、私」を載せる。数百年をサバイブしてきた生命力溢れる発想を骨組みにし、最先端たる現代により肉付けして飾る。そういうクリエイター達により、古典は生命を与えられてきた。

 そうだとするならば、僕らが古典と対峙するにあたり、「読む」という態度は相応しく無い。それはいわば、古典を古典として、彼岸に置く行為に該当する。今を生きる私と無関係の何かとして、現代的な変化を拒む化石として殺すことに他ならない。

 だから僕は提案する。古典を読むのをやめて古典で作ろうと。古典を学ぶのをやめて古典で遊ぼうと。古典は対象ではなく方法なのだということを提案し、提示し、そして誘導してみよう。そうして古典で遊んでくれた人の1人でも、「古典て楽しい」と言ってくれたとしたら、僕の試みは 成功だ。

 さあ、やってみよう。

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