【短歌と和歌と、時々俳句】24 秋風
10月までの猛暑を予告されている本年も、朝夕に少しずつ、本当に少しずつ、秋の気配が滲み出し始めています。今夜は久しぶりにエアコンではなく風の涼しさで眠ることができそうです。
「朝ぼらけ」は未だ明けやらぬ頃合いをさします。現在で言えば朝4時から5時ころでしょう。
荻はススキによく似た草。
この荻にのる露を見ることで秋を実感し、好忠は風の涼しさに気づきます。
視覚に導かれることでようやく秋を肌感覚で感じられるということ。思い込みに支配されがちな僕たちにいかにもありそうなことではないでしょうか。
この好忠歌に導かれたと思しき藤原基俊が次のように歌います。
基俊は定家の父、俊成が師事した人。御子左家関係者にとってはビッグネームであったことも関係してか、この歌が新古今和歌集に入集した際、定家・家隆・雅経が選者として注記されています。
この基俊歌は、視覚から肌感覚に秋を転換した好忠歌に対し、肌感覚から音への転換を図っています。両歌について、碩学・久保田淳は次のように語ります。
新味。
何の新味でしょう。
それはもちろん、秋の初風を歌うことについての新味です。さらに言えば、両歌に共通する秋風の肌寒さを歌うことについての新味です。
ではそもそも、秋の初風はどう歌われていたのでしょうか。
古今集でこのように歌われるように、立秋は涼しい風をもたらします。それは中国由来の伝統なのです。
秋には涼しい風が吹くということは大前提。だからその涼しさをどう詩にするか、という問いを持って歌人たちは歌を詠んだのですね。
この問いは伝統としてずっと探求されていったようです。例えば後の時代の
などもまた、秋の竜田山に吹く涼風を念頭に置きつつ、聴覚も組み込んだ歌い方でしょう。その意味で好忠や基俊の系譜に含んでよいかもしれません。
類型の中で探求された創造。秋風もまた、深く多様な表現を試された素材の一つであったのです。
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