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オーディズムなどのラベリングは何のためにあるのか?

今日は、オーディズムについて書こうと思います。
自閉症スペクトラムなどもオーディズムと言ったりするようですが、今から話すのは、聞こえることが優れているという前提に基づく考え方や言動の方のオーディズムのことです。

最初に言っておきますと、僕はどちらかの側を攻撃するために今から話すのではなく、お互い気持ちよく過ごすためにはこう考えてみたらどうでしょうか?
という提案です。

提案というか、投げかけですね。

さて、そのオーディズムの最たるものは優生保護法でしょうか。
劣る遺伝子を残さないようにという考えのもと、国がこんなひどいことをやったのは、本当に人道にもとることだと思います。

あとは、マジョリティである聞こえる人には“特権”があり、その特権を行使し続けている状態もオーディズムと捉えられる。
システム的に、聞こえる人前提に仕組みがあり、その仕組みの中で動いている限りは、オーディズムであるということですね。

これに対しては少し思うところがあります。

聞こえないからと、スイミングクラブを断られた、スポーツクラブを断られたというのは実際にあります。
これがオーディズムかどうかは、その判断基準によると思います。

「聞こえない人間は教えられないんだから泳げるようにならんだろう。」
という考えなら、オーディズムでしょう。
劣っている人間に教えることはできないということですね。

でも、「聞こえないと指示も聞こえず、何か危険に巻き込まれるかもしれない。そうなったとき責任を取れないのでお断りしよう」
という考えなら、オーディズムではないんじゃないかと思うのです。

命の危険にさらされるかもしれないから断る。
聞こえないから危ないだろうという気持ちで、聞こえないから劣っているとは思ってない場合もあります。

だからといって、聞こえない子を断るのはしょうがないとは思っていません。
それは、難聴に関して正しい理解を知らないからです。
説明したらわかってくれるかもしれませんし、説明してもわからないかもしれません。

このように、確かに聞こえる人の特権は自然に行使されています。
でも、だからといって、劣っているという感情が必ずしもあるとは言えないはずなんです。

聞こえる人の特権が行使されている状況は、それだけでオーディズムだというのであれば、オーディズムというもの自体が、絶対に相容れない壁を作っているように思います。
だとしたら、これがあるからこそこじれているのではないかとさえ思うのです。

オーディズムを語るときに言われることの一つに、
「発音が上手ですね」と言うのも、オーディズムだということがあります。

これも2種類あると思うのです。

「聞こえないくせに上手く話すじゃないか」と思っていれば、それはオーディズムでしょう。
でも、聞こえない音を出す大変さ、難しさを想像できるからこそ、「聞こえない状態でそこまで話せるなんてすごい!」と、心底敬意をが生れることもあります。

僕は、後者の考えを持っています。
僕の周りでも上手に話す人はいます。
娘も上手に話します。
心底すごいなと思います。
でも、聞こえることが優れていて、聞こえないことが劣っているとは微塵も思っていませんし、思ったこともありません。
聞こえの程度、ひずみ具合、難聴がいつわかったか、どんな療育をしたか、いろんな要素があるわけで、それはその人の優劣ではありません。
もちろん、厳密に言えば、あそこで努力を怠ったから聴覚をうまく使えるようにならなったとかそういうことがあるかもしれませんが、それは優劣とは違うと思います。
違う考えの人もいるでしょうが、聞こえないことを、優劣で考える思考を僕は持ってないです。

それは自分で気づいてないだけでオーディズムの思考だと言われるかもしれません。

でも、本当にそうでしょうか?
聞こえることが優れていると心の中では思っているから、聞こえない人で上手に話す人をすごいと思うのでしょうか?

もちろん、そういう人もいるでしょう。
でも、そうではない人もいると思いませんか?

足が速い人を、「すごいね!」と褒めた人全てが、足が遅い人を劣った人間だと思っているのでしょうか?

そんなことはありませんよね。

発音の上手な人を褒めたら、発音がうまくできない人はダメだ、努力が足りないと言ってるのと同じだという人もいました。

でも、そこはイコールで結びつく人もいれば、結びつかない人もいます。

むしろ
発音の上手な人を褒めたら、発音がうまくできない人はダメだ、努力が足りないと言ってるのと同じだという人の考え方こそが、オーディズムではないかと思うのです。

なぜなら、聞こえることが優れていると思っているから、そこに結びつくのであって、聞こえないことを優劣で考えてない人は、そこに結びつかないんです。

SNSなどの発信を見ていると、
「自分の発音を褒められた。そしたら、それを聞いたコミュニティの人から、そんなこと言わせないでと怒られた。ここに居づらくなるから褒めないでほしい。まさにオーディズムだ」
といった内容を見たことがあります。
そんなこと言わせないでと言った人は、発音がスムーズではない人だったようです。

これは、褒めた人がオーディズムの考え方があったかどうかはわかりません。
でも、そんなこと言わせないでと怒った人は、聞こえることが優れていると感じているからこそ嫌な気持ちになったのではないかと思うのです。
褒めないでほしいと言った人はどうなのか、これだけでは判断つきかねますが、少なくとも、このことが起きなくても、何だか過ごしにくいコミュニティにいるのかなと感じてしまいます。

もちろん、聞こえないことが劣っているという仕打ちを受け続けたのであれば、攻撃的にもなってしまうでしょう。
その環境はまさにオーディズムで、そこはなくさなければいけないでしょう。

でも、そのことと、発音を褒めることを一緒にしてしまうと、何だか誰も救われない方向にしか進まないように思うのです。

ただ、虐げられてきた環境がこういう状況を作ってしまったというのは事実だし、
聞こえる人が特権を持っていることも事実です。

その中で、オーディズムであることは断固として指摘しなければいけないですが、そうではないところでは、指摘する必要はないですし、これはオーディズムじゃないか?とモヤモヤすることもないと思うんです。
そうではないところで無理やり結びつけてしまっては、断絶を作って、自分が嫌な思いをするだけでしょう。
自分で自分の首を絞める必要はないと思うのです。

聞こえる側の特権については、多くの人は知りません。
だから、伝えていく必要があります。

でも、批判して伝えていっては、受け入れる人は少ないでしょう。
いかに正しいことでもです。
重箱の隅をつつくように、オーディズムの範囲を拡げる必要はないと思うんです。

重箱の隅をつついて出てきたのが、マイクロアグレッションかもしれません。
もちろん、知らずにやったことで傷つくことはあります。
なので、そこは伝えていく必要はあります。
でも、批判的なラベリングをして「それはマイクロアグレッションですよ!」と言うことの有効性はどうでしょうか?

素直に受け入れられる人が多いでしょうか?

知らないからしょうがないとは言いません。
でも、「それは傷つくことなんですよ」と伝えれば、「そうなんだごめん!」となるはずです。

いや、もちろん、ならない人もいます。
でも、批判的なラベリングをせずに伝えれば、好意的に行動を改める人は必ず増えます。

そして、ここも範囲はあると思います。

「発音を褒めるのはオーディズムですよ!」と言われたら、僕は「いや、そうじゃないでしょう」と思います。

でも、
「発音を褒めることはオーディズムじゃないけど、僕はそれを聞くとちょっと嫌な気持ちになるんだ」と言われれば、その人の前では発音は褒めないようにします。

それは「気にし過ぎだ」とは思いません。
いろんな背景があるので、彼はそうなんだなと受け入れられます。

これがお互いの歩み寄りなのかなと思います。

僕がこういうことを言うと、特権があるから言えるんだと言われるでしょう。
それはまさにその通りだと思います。

そして、特権がないと、なかなか落ち着いて考えられなかったり、心を広く持てなかったりします。
僕も別の部分で特権がない状態は経験していますので、そのときに卑屈になってしまったり、みっともないなあと思ってしまうこともあります。
そんな時は、なかなかこっちから働きかけるのは難しいですよね。

だからこそ、この歩み寄りをつなぐのは特権のあるマジョリティだからこそやりやすくもあるんじゃないかとは思っています。

決して、当事者不在でシステムを作るわけではありません。
聞こえる人と聞こえない人をつなぐことが大切だと思っています。

そういえばハラスメントもいっぱい増えましたね。
これも、アウトなことと、それは違うでしょ?ということが一緒くたになってると思うんですよね。

ラベリングというのは、一般化しますよね。
なので、吟味されずに一緒くたにされてしまう。

それって、血液型A型の人はこう!とか、
長男はこう!
とか決めつけているのと同じような気がします。

全人類が4種類か、RH-含めて8種類とかに分けられるわけではないですよね?

思考停止して一般化すれば楽は楽です。
でも、どんどん過ごしにくくなるんじゃないかなと思うんですよね。

ラベリングすることが重要ではないです。
目指すところは、お互い過ごしやすくなることです。

じゃあ、どうしたらいいか?

ラベリングはお互い過ごしやすくなるために使いたいですね。

と、ここまで話してきましたが、やはり、マイノリティの人たちの負担が大きくなり、マジョリティは動きやすい構図というのは事実、ありますよね。

でも、海の位置を変えられないように、この構図は変えられません。

じゃあ、どうしたらいいか?

その中で歩み寄っていくしかないはずで、そこをつなげられる人なら聞こえに関係なくつながり合っていけばいいのかなと思います。

実際に、つながる人はいます!
聞こえる人にも、聞こえない人にもですね。

だからこそ、少しずつこの歩み寄りを拡げていきたいなと思っています。


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