死ぬって別に、選んでるわけじゃない

死にたいって、生まれると同じくらい本来受動的なもので。

死にたいってよりも、「生きたくない」が近いのかなと思う。

なんで死んだの?ってみんなは思うのかもしれないけれど、この理由があるから死にますじゃなくて、この理由があるから生きたくないです、なんじゃないかなって。

哲学者が従来向き合っている「生きる意味」という問い。

各宗教が答えを出したりもしているけれど、個人的にやはり意味は見つからなかった。

強いて言えば、ここまで生きるのが楽しかった。だからこれからも楽しいはず。だから生きる、っていう選択かなって。

それならば、過去の生きる、現在の生きるがネガティブなら、未来のそれもネガティブであるという予測が自然で、そういう人は生きたくないと思うのが当たり前だと思う。

未来には楽しいことがあるかもしれない。きっとある。

それはそうなんだけど、過去にその経験がなければ、どうしてそれが信じられるだろうか。

だから、私たちがしなければいけないのは、死ぬ理由を減らすことではない。それはそもそも存在していないから。

必要なのは、生きることを楽しくするということ。

それは障害を取り除くことだったり、伝える情報を変えることだったり、楽しいことを増やすことだったり、きっといろいろある。

もうすでに、多くの人がそれをやってくれているとも思う。


生きる意味も、死ぬ理由も存在していない。

そのことを前提として、意味がないこの授かった命をどうポジティブなものにできるか。誰かの命をポジティブにできるか。

小さな一歩の積み重ねでしか、その答えは見つからないんだろうな。

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