哲学チックな、悩みについての話。

私が卒論で研究している古代ギリシャ哲学のストア派は、主に「自分の手の内にないもので気を病むな。他人の行動や世界は変えられない。けれど感情や他人の行動に対するリアクションは、あなたの手の内にある。手の内にあるものに集中すれば、誰しもが必ず幸せになれる」という哲学です。

そこで私は、でもコントロールできなくても、外の世界に影響を与えることはあるよね。特に人間関係は、自分の感情だけに集中することは、相手への影響を無視することにも繋がるから、それはモラル的な生き方ではないよね。という主張をしようと思っているわけです。

しかし、そもそも私がストア派を卒業論文の題材に選んだのは、彼らの視点が本当に的を射ていると思うからです。アドラー心理学でも「人に嫌われるとか自分にはどうしようもないことに人生を左右されるな」みたいなことを説いているわけですが、思い返してみると、やはり私たちは大抵、自分のコントロールできない範囲のものに対して悩んでいます。

もう一つ私がストア派を好きな理由は、その哲学が奴隷に人気の哲学だったからです。どんなに深い悩みを持っている人でも、古代の奴隷と比べれば、自分の環境はそこまで悪くないのではないでしょうか。それくらい、明らかに人より不条理な立場にあり、どうしようもないことの方が多い人生ですら、ストア派は希望の光を与えることができるのです。

一方で、奴隷よりも自由で可能性を持っている(と少なくとも自分では思える)私たちだからこそ、ストア派では物足りない部分が出てきます。それが、コントロールできるもの(自分の感情や物事の捉え方)とコントロールできないもの(他人の行動やハプニング)の間にある、「影響の範囲」です。

ストア派は、昨今の民主化運動、反差別運動を肯定することができません。彼らは自分が本来コントロールできないものに、意識を向けているからです。しかし、それは間違っている気もしますよね。社会を良くするための行動は、モラルのある行動なはず。

フェミニズムが経験する葛藤も、ここにあります。目の前で起きている現象は、明らかに男性の女性軽視によって起きている。そう思った人は、それを変えるためにフェミニズム運動に参加するかもしれません。一方でストア派的行動をとるのであれば、他人の女性に対する態度は変えられない、だから自分にできること(女性軽視ながらも自分にチャンスが与えられたとポジティブに捉える、差別主義者と距離を置き限られたスペースで生きるなど)に専念しようとなります。

たとえば、ナンパされたとき。女性だから舐められていると捉えるか、女性として魅力があるんだと捉えるかの選択肢があるとします。

個人的に、幸福度が高いのは後者だと思います。つまりストア派は個人を幸せにする哲学という点では圧倒的に正しい。科学的にも自分の人生をコントロールできていることは幸せに繋がると言われており、差別意識は自分にはどうしようもないこととそうそうに諦めて、自分の環境を少しでもポジティブに捉え、自分のできることに時間を割く方が確実に幸せになれるでしょう。

一方で、目の前の差別意識は、行動すれば変えられるという可能性を持っている「影響の範囲」にある事象です。変えようと思うには「目の前のことは変えるべきもの」という認識が必要であり、その点でまず不幸な現実を受け入れなければならなくなります。しかし、未来で女性が人として尊敬される世界を作るという可能性は、その不幸を受け入れて初めて生まれます。

哲学としては、後者、つまり自分の影響の範囲までモラル的に最良の結果になるよう行動すべきというのが、ストア派として一貫した主張になると思います。しかし人生においてどちらが正解か、どちらが結果的に最良の幸せをもたらすかは、個人の価値判断と運による結果次第だとも思います。

ただ一つ言えることは、私たちが悩むとき、それは自分の幸せを超えて、外の世界への「影響の範囲」に取り組んでいるとき。そしてそれがもし自分のためではなく、世界のためなのだとしたら。それこそがもっとも徳が高く、意味を生みうる選択だということです。

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