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生存本能の欺罔

 こんにち生存せんとする態度は本能的なものであるとおもわれているが,これには異見の余地が多分にあろうとおもう。すなわち,人間はがんらい生死を求めるわけではなく,これは後天的に生ずるさまざまな欲望と忌避によって間接的に決まるという見方である。

 そも人が生まれながらに生死を(自覚や意識の有無を問わず)解するのかさえ訝しい。快/不快とシニフィアンとが織りなす図式にしたがって,そこに帰納的に生存本能が幻視されるとする考えの方が私には穏当におもわれる。

 例えば,最高の絵を描いてみたいのであるとか,愛した人ともう一度だけ話してみたいのであるとか,来年に発売予定のあのゲームをやりたいのであるとか,HUNTER×HUNTER の最終回を読みたいのであるとか,さような種々の欲望が,「それらはすべて生きていなくては実現しえなさそうである」と我々に思わせてくることで,あたかも生きることそのものが本能的であるように幻視されるということである。

 それなので,我々は最高の絵を描いたときに,愛した人ともう一度だけ話せたときに,来年に発売予定のあのゲームをやれたときに,HUNTER×HUNTER の最終回を読み終えたときに,得てして「もう死んでもよい」と少なくとも刹那的には思えてしまえるのである。

 とは言っても,大抵のばあい,彼はまた新たな具体的欲望に呪縛されてしまうので往々にして死なないのであるが,この新たな欲望さえも持てなくなってしまったときや,もはやそれが欲望を構成できないような(即ち,その欲望を叶えることが不可能におもわれる)世界を認めてしまったとき,彼は晴れて自死もできうるのである。

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