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述語論理学を利した重言のクライテリア

主論

 次のツイートに触発されたから,重言の必要十分条件について私見を著す。

 まずは,重言(二重表現)を丹治信春が著したラベル付きタブロー法の操作を基礎として次のように定義する。すなわち,或る表現(φ)が重言であるための必要十分条件は,φ の文節構造を備えた論理式(ψ)のタブローにある全ての開いた枝に,重複した論理式が現れることである。さらに,〝ψ が φ の文節構造を備える〟とは,ψ の文節がそれぞれ独立した論理式として現れており,それらの論理式の相補的(互いの変項を網羅的に補い合うよう)な関係によって φ が記述されていることである。

 まだ分かりにくいかもしれないが,すぐ後にやる具体的な操作を精読すれば,話はかなり明瞭になる筈である。

 さて,「甲氏は頭痛が痛い」(A)がもつ「△△氏は〇〇が□□」という構文について考えてみると,この文は,先生がウザい,水泳がキツい,筋トレがツラい,花火がエモい,中耳炎が痛い,のように,〇〇によって感覚□□が△△氏に生ぜしめられている旨を申告するものであると読める。本項では, A はかような構文を採るものであると解する。そこで,この構文を,(Xx)∧(Xx→Yx)(B')という論理式によって表す。*

 さらに,A は,甲氏は/頭痛が/痛い,という文節によって成る。A の文節構造を備えた論理式を見易くするために,まずはこれら三つの文節を,それぞれ独立した論理式によって次のように表現する。いずれも B に対してそれぞれの文節が定項として入力されているという特徴を持ち,「:」より右側にある全角括弧の内部は,左側に対応する論理式においては変項として現れている。

(Xa)∧(Xa→Ya):甲氏は(頭痛が痛い)
(Hx)∧(Hx→Xx):(甲氏は)頭痛が(痛い)
(Xx)∧(Xx→Px):(甲氏は頭痛が)痛い

Hx:x は頭痛の状況にある
Px:x は痛みを感じている
a:甲氏

 さて,上掲した三つの「論理式の相補的(互いの変項を網羅的に補い合うよう)な関係によって」次の論理式が書ける。すなわち,

(Ha)∧(Hx→Px):甲氏は頭痛が痛い

 さらに,Hx と Px に次の関係を認めるべきだろう。すなわち,

∀x(Hx→Px):頭痛の状況にあるものは痛みを感じている

 これにタブロー法の操作を施すと次のようになる(尾に[ ]が付されている論理式は,それが何番の論理式から導出されたのかを表す)。

1⊤: (Ha)∧(Ha→Pa)
2⊤: ∀x(Hx→Px)
3⊤: Ha[1]
4⊤: Ha→Pa[1]
5⊤: Ha→Pa[2]

 このタブローはまだ書き続けることができるが,すでに 4 と 5 の論理式が重複しているから,A は重言であると判ぜられる。

 それでは,「乙氏は口内炎が痛い」についても見ていこう。

(Xb)∧(Xb→Yb):乙氏は(口内炎が痛い)(Sx)∧(Sx→Xx):(乙氏は)口内炎が(痛い)
(Xx)∧(Xx→Px):(乙氏は口内炎が)痛い

Sx:x は口内炎の状況にある
Px:x は痛みを感じている
a:乙氏

 ここまでは「甲氏は頭痛が痛い」の場合とアイソモルフィックだが,本件において ∀x(Sx→Px) は認められまい。なぜなら,或る人が口内炎の状況にあるからといって必ず痛みを感じているとは限らないからである。

 さて,これに先ほどのようにタブロー法の操作を施すと次のようになる。

1⊤: (Sb)∧(Sb→Pb)
2⊤: Sb[1]
3⊤: Sb→Pb[1]
4⊥: Sb[3] 5⊤: Pb[3]

 本件では,5 を末端とする枝が開いているのにも拘らず,これに重複した論理式が認められないから,「乙氏は口内炎が痛い」は重言ではないと(ちゃんと)認められる。

 ところで,この文は,(殊に頭痛ないし体調不良のせいで)適切な思考が困難な状況にあることをパフォーマティブに自称するサインとして,或いは重言の代表例として,既に我々の言語において有効にイディオマイズされているように見える(かくいう私も,「頭の頭痛が痛い」を前者の意で用いることがしばしばあるし,まさにこの記事において後者の意味でも用いている)ので,文脈から見て殆ど明らかに斯様な用法がなされているものについては,私はそれをもはや誤用とは言うまい。

付論1

 「頭痛が痛い」から頭痛が特にひどい旨を読むことで齟齬の現れなく疎通する状況はあろうので斯様なイディオマイズを仮に認めてみるとして,「ここでの『痛い』は『痛みの度合いが強い』を含意している」のように,「痛い」を部分的に取り出す態度がどこまで適当なのかは訝しい。というのも,イディオムは比喩に比して構造的な文法を取らないからである。

 例えば,"kick the bucket" は代表的なイディオムであるが,このときの "bucket" のみを取り出してこのイディオムにおける意味を問うても,部品であることの他には答え難い。自殺に至るまでの諸事象であると言ってみることは辛うじて可能かも知れないが,このイディオムが字義的に表す場面においてもその行動に向かわせる諸事象があろうし,やはりさほど構造化されているとは思えない。

 これに対して,怒りと容器の中の熱せられた液体とのメタフォリカルな関係は比して構造的(すなわち,熱せられること⇆理不尽や不満を我慢すること,沸点に達すること⇆我慢の限界を超えて怒りを顕にすること,等)である。

 それに,或る用法を認めるか否かはその言語ぜんたいの機能と環境を見て定めるべきことであって,頭痛が激しい/穏やかと言えば済む事情等を勘案すると,わざわざこの用法を認める価値があるのかは訝しいものである。

 他方で,[君はやっぱり君だ]という文が,期待した通りにふるまってくれた者を讃したり彼の像がより堅固になった旨の修辞表現として認められ易い理由は,これが用いられる多くの状況にてコンテクストが判明なため理解に困らないという事情等が(むろん他にも様々なものが)あろう。

付論2

 ここでは意味の重複が問題とされているわけだから,「頭痛」で納得ができない人はそれを「口内炎」に置き換えたところで特には変わりなかろうとおもう。

*「甲氏は頭痛が痛い」と「丙氏は足が速い」がもつ構文は,互いに外貌が同じでも内実は異なっているものと解する。後者は,議論領域を人(や物)全体の集合に,丙氏をその要素(個体)であると設定するなどして単純な述定の文であると捉えるか,もしくは連言で書けば済む筈である。

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