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死にそうな確認

カステラばかり食べている

気づいたら

カステラをレンジであっためた豆乳で流し込んでそれを食事と呼んでいる


思い返せば、「食への表出」

これは、一つのテーマだった

家族や恋人や世界との関係がズレまくって手が付けられなくなっている女性たち(時に男性も)の心は、胃袋そのもので

いろいろな表出の仕方で食との関係性もまたおかしいことになっている

たとえば3,4日食べないのがふつうだったり、果物しか食べなかったり、チュウイングをしたり(呑み込まずに噛んで出す)、吐くために食べたり、コンビニのものしか食べられなかったり、自分の作るものをまずいと信じ込まされていたり・・・

食べることが生きることと同じようにむずかしいと感じている人たちが本当にたくさんいる

そしてわたしもその一人だろうと思う

カステラが食事になったり

安心している関係の中でしか、ものを食べれない

これはなかなか人には話さない類の話で

あまり語られることがないし、わたしも語ったことがない

食べることのむずかしさを感じ始めるのは、多くの人が10代からで

自分一人でそのむずかしさを抱えながら生きている

それは、もう生き方そのものであり、病気とか障害とか言われたところで耳など貸すことはほとんどない

苦しいけれどほかのだれかにどうにかしてもらえることでもないと思っているからあまり語らない 治ろうとしない

治ろうとすることは逆方向に進むことで、これまでのあり方を全否定することだからだろう

19歳から有機農家に通って農的暮らしにあこがれ、

「食べることは生きること」

「ごはんをおいしく食べられることが健康のバロメーター」

そういうことを言われてきたし、言ってきたし、自分にも言い続けていたし言ってみたら信仰すらしていたけれど

そんなわたしが

いつのまにか食べられなくなっていた

最初は、ご飯を食べようという気が起きなくなった

そのあと、食事を作ろうという気力が湧かなくなった

そして、食べない夜や朝や昼が続き、たまに食べるとお腹が激しく痛くなるのだった

今日、古道具屋の店主を友人から紹介された

友人が働く職場の棚を管理者がかかとでぶっ壊した後にその古道具屋で新しい棚を買ったという話

その管理者とは数日前に、お互いに死にそうであるという確認をし合った相手だった

たまに会って死にそうな今を話して束の間安心するという稀有な関係性だ

その話をした数日後、つまり昨日の夜、久しぶりになにかを食べよう、なんだったら作ろうと思い立ち、うどんを作って案の定腹痛に苦しんだ

そんな毎日だ

ろくでもない胃袋と付き合う毎日だ

それでも心がどこにあるかわからなかったときよりも

食べることは生きることだと恥じることなく言っていたときよりも

からだと親密になっているのを感じる

どうしようもないこのからだと 胃袋と

死にそうな今を隣でグルグル言いながら一緒に眺めている

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